横田南嶺(臨済宗円覚寺派管長)
藤田一照(曹洞宗禅僧)


2人の「発心」がどのようなものだったか、「これまでの仏教」を通しての修行、そして「これからの仏教」の展望を伺った2021年の第1回。そしてこの2022年の第2回対談では、「現代における坐禅の意義はどこにあるのか」をテーマに、「釈尊の樹下の打坐、達磨の面壁、道元の只管打坐と連綿と伝わってきた幽邃な坐禅の世界を二人で縦横に語ってみたいと思います。」という藤田一照師の言葉を入り口にして、「坐禅の探求に生涯をささげるのみなのであります。」という横田南嶺老師と、坐禅の本質と今日性についてお2人にお話をいただいた。全6回でお送りする第3回。


第3回    目指そうとした時点で違う


■<坐禅>~目に見えない坐禅の本質

横田    先ほどのお話ですと、一照さんがやっている割り稽古や様々なワークは、坐禅をする前のステップではなくて、その一つ一つの動作の中にも、坐禅の本質につながるものがあるという見方ですね。

藤田    はい、そうです。だから最初に足指回しをやるにしても、それは坐禅の前のステップ1ではなくて、すでに坐禅としてやっています。そこに坐禅が表現されている。だから、10に行くための1ではなくて、この1の中にも10があると見たいんですよね。

横田    私もそれはまさしく同感でございます。我々が坐禅していても、ついつい形だけとか、あるいはその形でもどこかに偏りがあったり、あるいは癖があったりと、きちんと坐っているつもりでも本質からずれていることもよくあると思います。逆に、たとえば腰を立てるとか、体幹が整うというような坐禅の本質が、違う動作をしている中にあるのを見つけると、その本質がくっきりするんですよね。

藤田    そうですね。

横田    以前、江戸時代にやられていたであろう四股を教わったときにも、その身体の動かし方に、坐禅の体幹がまっすぐ整うのと同じところが活きているんですね。四股にも、坐禅のようにのびのびとしていて、それですっと立とうとしているところを見つけられる。そうすると、なおいっそう坐禅の本質がありありとしてきて深まります。幽邃さ、奥深さが深まるというのでしょうか。そのように、いろんな角度からやることで、本質が深まる。だから一つの型だけですと、本質が見えにくくなるところがあると思います。

藤田    そうです。だから坐禅という言葉で指し示しているものは、実は見えないものです。「こういうもの」と言葉や図で言い留められないものを、坐禅と言っているわけです。伝統的な坐り方は、その本質が最も純粋に表れているものですが、それだけが坐禅ではありません。それで、ここでは目に見えない坐禅の本質を、坐禅にヤマカギカッコを付けて〈坐禅〉と表現してみます。これが坐禅を坐禅たらしめているもので、これが抜けたらただの坐禅の形をして坐っているだけになってしまいます。道元禅師の『普勧坐禅儀』にも「豈に坐臥に拘わらんや。(あにざがにかかわらんや)」とあります。

横田    本当にそうですね。

藤田    で、この〈坐禅〉は、いろんな形で表現できる。

横田    そうです、そうです。

藤田    僕は26歳のときに、ここ円覚寺の居士林で行われた冬の学生接心に参加しました。その時、横田老師のお師匠である足立大進老師の提唱で「禅というのは24時間、なにをしているときでも修行なんだ。そこに休みというものははないんだ」とお聞きして感激しました。
    その意味は、今の僕の理解では、〈坐禅〉の表現として掃除もするし、話もするし、お茶も飲む。やはり澤木老師も「坐禅が掃除をし、お茶を飲み、糞を垂れるんだ」といったことを言っておられるので、単にスローガンではなくて、現実にそうなっているというのが大事だと思います。それは、「こうやって坐っているのが坐禅なんだ」と狭く思い込んでいるレベルではだめだと思います。
    坐禅も作務も淡々と只管にやる。そうやってやり続けていくなかで、だんだん自分の中に何かが蓄積され培われていって、知らないうちに無意識にどの行いも〈坐禅〉になっているようなものじゃないかと思うんです。ですから、「今ここまできたから、その次の段階が、それだ」みたいにはからって目指してやるのとは、たぶん違うものじゃないかなと。

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■トレーニングと稽古

藤田    この目指してやることの危険性には、僕は禅の世界に入っていなかったら気がつかなかったですね。それまでは目指して達成する、それが達成したらもっと高いところを目指して達成する……それをずっと続けていくことがあるべき努力の姿だと思っていましたから。

横田    目指そうとした時点で違うというのは、禅の特徴ですね。私なんかが今取り組んでいる腰を立てるということにしても、達人と我々では全く違います。我々は違うところに力が入ってしまってね。いろいろな動作をすることで、腰が立ち上がる状態がよりいっそうはっきりしてくる。そうでないと、坐禅で腰だけ力んで立てたつもりになっても、もうそれは違う腰の立ち方ですよね。

藤田    そうですね。そのやり方だと、意識されないものがまったく除外されてしまっているわけですよね。何かを目指して頑張る、努力するというのは意識の世界の話です。禅の言葉で言うと「有心」ですよね。でも、禅は鈴木大拙翁なども「無心」をすごく強調するわけです。
    無心はぼーっとしていることではなくて、有心よりも遥かに広い世界を生きている状態だと思うんですよ。無心にしていると、物事がスラスラとできていくわけですからね。無心って何もできないでボーっとしている状態とは違って、自分も含めた大きなものがフルに働いている。

横田    そう、トンボが空を飛んでいる状態ですよ。微妙なバランスを見事にとりながら、しかも綺麗に飛んでいる。あれが本当の充実した無心でしょうね。

藤田    それを意識的なプログラムではからってやろうとすると、たぶん間に合わないんでしょうね。有心で全部コントロールしようと思ったら、情報を行ったり来たりする時間がないので、ぎこちなくなるか、上手くいかないのではないですかね。

横田    達人は「ほれ、誰でもできる」と説きますが、誰もできない。

藤田    だから、稽古って本当に難しいです。トレーニングなら目標設定して、言われたことをやっていく。もし、その目標が高過ぎたら、その手前の達成可能なところを目標にして達成させて、さらに少し目標を高くして達成させて……というようにどんどん進歩するようにやっていく。それがトレーニングだとすると、稽古にはそういう階梯のようなものがないわけですよね。わかりやすい手がかり、足がかりがはっきり用意されているわけではない。
    ただ「ここを掃除しておきなさい」と言うぐらいで、そこに無限の課題がある。でも、最初は何もわからないですよね。ただ言われたから掃いていると、先輩や師匠から「おまえ、そんな掃き方じゃ掃除になってないよ」と言われて、よく見たら掃いていないところが残っていたり、埃がモウモウと舞っているだけで全然きれいになっていなかったり。そういうことに気がついて、部屋なら部屋をきれいにすることを自分の課題にして、探究していく。そういうのが稽古です。何をどうすればいいかということ自体を自分で見つけていく。
    あまり親切に「今やるべきことは、これ。次は、これ。」みたいな箇条書きにして、これを全部こなせというようなマニュアルになってしまうと、自分でゼロから工夫をするという世界が出てこないですよね。

横田    まあ、そうなりますね。


■介添えの必要性

藤田    ただ、今の人たちは……というか僕も含めてですけど、やはり何かちょっとしたヒントなり、導きの糸なりはある程度必要なんじゃないかということもあります。

横田    その通りですよね。

藤田    指導する側の目から今の人を見ると、時間がかかりすぎるし歩留まりが悪いところもあるので、もう少し介添えをしたほうがいいのですが、どのくらいするかというのが、やはり……

横田    難しいですよね。

藤田    難しいところです。人によっても違いますし。叱って伸びる人と、褒めて伸びる人がいるし、何も言わないほうがいい人もいるし、それぞれあるわけですよね。

横田    本当にね。前回(2021年)の対談のときに、臨済の修行はとにかく相手を否定するということを言いましたけれども、今の人たちは否定されることに慣れていないんですよね。もう、そういう育ち方をしてきたのではありませんから、いきなりやると心を閉ざしてしまうか、あるいは心が折れてしまいます。
    それで親しい川野泰周【*6】さんに来てもらって、マインドフルネスやセルフコンパッションを教えてもらうと、みんな喜ぶんですよ。彼らにはある程度、そういった介添えのようなことも必要だと思います。

藤田    アメリカにいたとき、心理学とかセラピーを専門としている何人もの方から指摘を受けました。彼らは、仏教は無我、ノーセルフを説きます。特に禅は「自我」というものを否定することをよく言うけど、なかにはその「自我」がちゃんとできていない人がいる。否定すべき「自我」がまだ未熟な人たちに、自我をなくすことを教えたり、あるいはやらせたりしたら、無我どころか心が壊れてしまう。だから、いきなり無我を言う前に、ちゃんと自我というものを確立させないといといけないのではないか、と彼らは言うんです。
    実際、未熟な自我のまま禅を始めて自我を否定するようになると、今のセルフコンパッションの逆のセルフヘイトというんですかね、自分を否定して何もできなくなってしまうわけです。何かしようと思ったら、「それは仏教で否定する欲望だ」と短絡的に理解してしまうと、何にもできない。あるいは、それを口実にして何にもしない。ちゃんとした普通の生活ができなくなってしまう。
    ですから、仏教のメッセージが短絡的に誤解されないように、「今のこの人には、これを言うのはまだ早い」とか、「いきなりこれを言うのは刺激が強すぎる」といったさじ加減なり、相手の器量や根機をちゃんと見極めることが教育上必要になりますね。でも、日本の教育もそうだし、僧堂の修行もそうかもしれませんが、個々人の特性を無視して全員を一律に合わせようとするところがありますよね。それで合わない人は、落ちこぼれになってしまう。

横田    本当にそうですね。

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★脚注
*6川野泰周:1980~ 臨済宗建長寺派林香寺住職。精神科・心療内科医


2022年7月2日、北鎌倉・円覚寺にて対談
構成:森竹ひろこ


第2回 坐禅はステップ・バイ・ステップではない
第4回    現代における坐禅の諸相


【最新情報】

2023年7月23日    横田南嶺老師×藤田一照師対談    開催!

見逃し配信付チケット発売中
https://peatix.com/event/3631624/

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