ディーパンカラ・サヤレー 

第2回    行動する


ミャンマーの瞑想指導者ディーパンカラ・サヤレーの、2008年1月6日および2013年1月2日の日本でのリトリートでの法話の中から、「慈しみの瞑想」についてのお話をお届けします。



■慈しみの実践

●朝一番の慈しみ

    毎日朝早く「慈しみの瞑想」をして、自分に対して慈しみを送ると心が静かになります。それと同時にすべての人に対して親切に行動します。自分の住んでいる所で会う人ごとに親切にすると、彼らもあなたのふるまいや思いに対し、とても幸せを感じます。そのときに他人に対してあまりにも期待しすぎないことです。期待しすぎると、それが返ってこないという不満を持ってしまうので、期待することなく、慈しみ(メッタmetta)をただ自分から送るようにするのです。

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内房総の岩井海岸から望む富士山。
日本でのリトリートは主に岩井海岸の民宿で行われている。

●「許し」と「忍耐」が慈しみの基礎を築く

    たとえば家族の中がうまくいかないとか、問題ばかりだとかいう人がいます。そのときに、家族をいかに愛するかを知っているなら、許すことができるはずです。お互いに、「自分の言っていることが正しい」と言い合っていると、なかなか収まりがつかないので、そういう場合に許すことが大事です。家族を愛しているなら、忍耐強くなくてはなりません。そうすればうまく行きます。
    慈しみの基礎には忍耐があります。家族だけではなく、友人や自分に関係のない人に対しても、慈しみの心を広げていくのです。唱えているだけでなく、たとえば電車やバスの中で年老いている人や困難な人たちがいたら、席を譲ってきただろうかと、自分に問い直してみてください。そういう行いによって、相手の人たちが幸せになれば、自分の不便さは問題ではなく、うれしくなって幸せを感じます。苦痛はありません。 皆さんは、他の人、病気の人に席を譲ることができますか?    それを、少しずつでいいですから、実際に行動してみてください。それが、慈しみの基礎になります。

●実際の行動から幸福な感情が生まれる

    慈しみ(メッタmetta)の意味は、人々の利益になることをする、ということです。実際に行動してみない限り、幸せの経験は起こりません。行動すればするほど、幸せな経験をするようになります。実践が必要なのです。
    貧しい人や苦しんでいる人に会ったときに、どれだけ支えになってあげられるか、どれだけ自分の持っている財産を分け与えることができるかが大切です。実際的な行動を起こさず、ただ「可哀想にね」というだけでは意味がありません。金銭を提供することができなくても良いのです。苦しんでいる人を心から励まして元気づけることができるかどうか。そこに自分の時間を提供することができるか、ということです。

●小さな行動から始め、育てる

    彼らのためにどれだけ行動できるかということが大切であって、始めのうちは少しでも良いのです。少しずつ、与えることを学んでいきます。寛容さと与えることを積み重ねることによって、自分も幸福になるということを学ぶ事ができます。人々に対して利益になるような事を少しずつ積み重ねることで、「自分も彼らも同じなのだ」と思うようになり、そして心がよりバランスするようになり、自分のことで悩むことが少なくなります。自分のエゴを感じることが少なくなり、エゴを手放すことができるようになります。
    愛というのは恋人同士の間だけにあるのではなく、私たちはこのようにしてバランスの取れた心で人を愛することができ、心から人々の利益のために行動することができます。この愛はとても平和なもので、バランスが取れています。過度に「自分のため」ということがなく、人々の利益のためを思っています。恋人の間では互いの愛を必要とし、その愛は二人の間だけのものであり、バランスが取れていません。全ての人々への愛は平等であり、とても平和です。
    私の場合も、様々な国や人々の所へ訪問する機会があるのですが、皆さんを家族のように、また兄弟姉妹として愛するように努めています。そして皆さんが幸せになるよう支援しています。皆さんが集中力を得られるように、また禅定(ジャーナjhāna)を得て平和で幸せになれるように支援しています。そのことによって、私もまた幸せになります。どこへ行っても、どの国へ行っても、心は平和でまたバランスが取れるように努めています。見返りを求めず、皆さんがより幸せに、よりリラックスして疲れないようにと純粋に思っています。
ディーパンカラ3_石仏は、岩井で合宿をして、車で東京に戻るとき、鋸山の日本寺大仏を見に行った時のものです。-s.jpg 174.7 KB
ディーパンカラ・サヤレー。
背景の石仏は、千葉県の鋸山日本寺に安置されている大仏。

■公共のために

●お布施を社会のために使う


    私たちにお布施をしていただいたときも、単に自分たちのために使うのではなく、他の瞑想センターのためにも使います。ミャンマーには貧しい地域があるのですが、お布施の一部は、そこにある学校を支援することにも使います。また、ある大長老が病院を建設し、その数は15以上あるのですが、それらの病院に対しても毎年お布施しています。とりわけ眼科病院には力を入れています。というのもミャンマーでは、貧しい人々にとって病院の費用が高すぎて払うことができないので、病気になっても病院にかかることができずに亡くなる人もいるからです。
    眼科病院については、3か月に一度、海外の専門医を呼んで村人たちを診てもらいます。200人以上の患者が来ますが、無料で治療しています。他の医療も無料ですので村人たちはとても喜んでいます。今まで眼の見えなかった人が、治療によって見えるようになったので、人生の光を取り戻して、とても喜んでいます。お布施している眼科病院は、「ディーパンカラ眼科医院」の名前が付けられ、すべて無料で治療してもらえます。

●「本当の幸福」とは

    私は長年海外を回って仏教を教える活動をして、忙しくて疲れることもあるのですが、ミャンマーに帰ってきても、病院を回ってお布施をすることで忙しくしています。そしてダーナ(dānaお布施)をすることによって、とても幸せなのです。そして患者さんたちもとても喜んでくれます。
「本当の幸福」とは何かについて学ぶ必要があります。人々に対して利益になることをしてあげると、その人は幸せを得ます。そして人が幸せなのを見るとあなたも幸せになります。私たちの人生は、人々から多くの幸せをもらうことができます。人々が苦しんでいたり、貧しさで困っているのを見たら、親身になって支えてあげることです。そのことによって自分もまた多くの幸せをもらうことができます。

翻訳・構成・写真:はらみつ法友会

第1回    瞑想中の心への対処
第3回    餓鬼界、天界、一切の生命