中村圭志(宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学・上智大学非常勤講師)

ジャンルを問わず多くの人の心に刺さる作品には、普遍的なテーマが横たわっているものです。宗教学者であり、鋭い文化批評でも知られる中村圭志先生は、2023年に公開された是枝裕和監督・坂元裕二脚本の映画『怪物』に着目。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したこの話題作の背後に「宗教学的な構造」を発見し、すっかりハマってしまったそうです。大学の講義で学生たちも驚いた独自の読み解きを、『WEBサンガジャパン』にて連載。全六章(各章5回連載)のうちの、いよいよ終盤、第五章に入ります!

第五章    『怪物』の背景    差別の歴史と宗教の両義性[1/5]


■「LGBTQ映画」という枠づけに内在する問題

『怪物』は、初め学校の隠蔽体質を描く映画であるように見えていたのが、途中から同性愛の抑圧の問題が前面に出てくるという形で、LGBTQの、とくに子供のそれの認識の壁を可視化する作品でした。ミステリーの構造を通じて観客自身が身をもってこの壁を追体験するところが、作劇法的なポイントとなっていました。
    観客の中にはLGBTQなんて自分には関係ないし、興味もないという方も多いでしょうが、それでも仮に子供を産んで育てている方の場合、「関係ない」では済まされないのかもしれません。というのは、確率的に低いとしても、関係ないと思っている人の子供がそれである可能性があるからです。
    親自身は概ねシンプルに異性愛者でしょうから、自分の子供にその兆候があっても気づけない。お子さんは受け入れられないことを察知して、自らのことは明かさないかもしれない。周囲にも相談相手がいない。しかも性の問題は恥ずかしいものであり、また道徳的な圧力もあります。もともと少ないものは、まるでないもののようになっていく。
『怪物』の場合、早織は息子を溺愛しつつも、彼の性的傾向には気づいていませんでした。映画の構想段階では、湊がわざとスマホに女の子の写真を残して寝て、寝室に入ってきた母に見せるという偽装工作をしているという案もあったようです。
    この映画はカンヌ映画祭で優れたLGBTQ映画に与えられるクィア・パルム賞を受賞しました。ただし、「これはLGBTQ映画であるぞー」とばかり強調するのは、この映画の作劇法にとって矛盾をはらむことになります。なぜなら、LGBTQ映画という「看板」を見て自分には関係ない、見たくないと思う人も出てくるであろうからです。「認識の壁」の再生産です。
    一般的に言って、世の人に「知ってもらう」のは望ましいことです。人権運動も映画の制作も基本的には「知ってもらう」ことを目指している。しかし、作劇法的にはテーマを知らせない(ミステリーにする)ことに意義がある場合もある。娯楽的にばかりでなく、LGBTQ的にもです。ここにジレンマがあると言えるでしょう。

■確率的に考えてみる

    さて、『怪物』の二人の少年、湊と依里は、新学期のクラス替えによって出逢い、互いに好きになりました。確率的に考えると、これはかなりの僥倖(ぎょうこう)かもしれません。
    いったい同性愛者の比率はどのくらいなものか、正確には分かりません。なぜなら、アンケートをとっても正直に答えてくれるとは限らないからです。また、概念的な認知を拒んでいる当事者もいます。ですから、推定される比率はかなりの幅があるのですが、まあ、男女あわせてだいたい数パーセントというところのようです。100人中数人ですね。
    もしそうであるならば、たとえば30人学級であれば、湊のクラスには男子の同性愛者はもういない可能性が高い。女子の同性愛者がいたとしても、湊にとって恋愛対象にはなりません。
    学年中には誰かいるでしょうが、しかし、互いにその存在に気づく可能性は非常に低いはずです。しかも、同性愛者どうしであれば互いに好きになるというわけではない。それは異性愛者の場合と同じです。30人クラスの一人の男子は15人の女子全員に惚れるわけじゃない。学校から職場までのどこかで結ばれるまでに、異性愛者は何十何百という「候補」と接触しますが、ドンピシャの相手に出遭うまでの道のりは遠いものです。
    社会の現状では、湊は学校時代、就職後を通して、少なくとも教室や職場では、いつまでも依里との出逢いのような体験をしない可能性が高いのではないでしょうか。
    もっとも、大都会であればゲイサブカルチャーを介しての出逢いの可能性がありますし、今ならネットでの出逢いもあるでしょう。第一章で触れた歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、情報問題に詳しいことでも、同性愛者であることでも知られていますが、著作『NEXUS』の中で、このあたりの問題に触れています。ネット時代以前のイスラエルの同性愛嫌悪の田舎町においてゲイどうしが互いを見つけ出すことは非常に困難であったと(邦訳下巻105ページ)。確率的に考えて、世界中で同様の事情かと思われます。
    映画の2つ目のパートの最後のところで、台風の日に早織と保利先生が車で廃線のトンネルに向かうシーンがありますが、そこで早織は息子についてこう明かしています。「小さい頃から、目を覚ますといつも泣いてるんだよ。好きな人がいなくなる夢を見て、いつも泣いてるの。優しい子なの……」。
    この言葉からすると、湊は小さい頃から、男子が好きになりながら、かなわぬことと諦めて夢の中で泣いていたと思われます。ひょっとしたら好きな相手から嫌なことを言われ、自粛や防衛が身についていたのかもしれません。
    同性愛も異性愛も中核部分には先天的なものがあるので、思春期の性の目覚めのプロセスとは基本的に分けて考えなければなりません。思春期には、同性どうし集まって性の話をしたりするものですが、そのさいに「同性愛」的なじゃれ合いが起きることもある。しかし、同性愛者はそうやって「作られる」ようなものではないのです。

■映画は運命的出逢いを描くものである

    映画やドラマというものにはファンタジー的な側面が必ずあって、たとえば登場人物がみんな美男美女であるとか、ふつうあり得ないような偶然の出逢いがあるとかするものです。しかし多少とも好都合にできているから娯楽として成立するのですから、こればかりはいたしかたありません。だから、湊と依里の出逢いが僥倖だと私が言うのは、映画の設定に文句をつけたくて言っているのではないことを御承知おきください。
    ともあれ、映画では湊と依里が奇跡的に出逢えたことになっている。(比率の少なさ)×(公表性の低さ)×(好みの問題)の3重のハードルを一挙にクリアできたということを生真面目に受け取りますと、二人の出逢いは、こりゃもう、運命的としか言いようがない。
    そうしてみると、二人のビッグランチの通過儀礼と最後の駆け抜けのシーンを「結婚式」のようなものと見る解釈(前章で紹介しました)にも、妥当性が十分あるということになりそうです。現実世界における同性婚の問題とは別次元のモチーフとして、生涯を通じての重みのあるイベントで祝福してあげてもいいではないかということです。




第四章    死と終末のイニシエーション[5/5]
第五章    『怪物』の背景    差別の歴史と宗教の両義性[2/5]