〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
阿純章(東京都圓融寺)
小野常寛(東京都普賢寺)

慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画「お坊さん、教えて!」。連載第2回は、天台宗の阿純章(東京都圓融寺)さんと小野常寛(東京都普賢寺)をお迎えしてお送りします。


(3)一乗思想


■聖徳太子と一乗思想

    最澄さんの時代、南都仏教は法相宗(ほっそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)が二代双璧でした。南都六宗といってそれ以外の宗派も南都仏教を支えていましたが、そこに鑑真大和上(がんじんだいわじょう)が戒律を伝えにやってきます。
    鑑真大和上がなぜ日本にやってきたのかについては、大きな謎があります。当時の中国仏教界では大御所中の大御所であったのに、そういう方がわざわざ6回も渡航を試みて、命からがら日本に来た。過酷な旅のため最後は失明もしてしまう。中国にとっては人材の流出ですし、政府もみんな止めたといいます。であるにもかかわらずなぜ日本に来たのかというと、ある伝説があったからだと言われています。それは天台智顗の師である慧思の生まれ変わりが聖徳太子であるという伝説です。慧思が聖徳太子に生まれ変わって和の思想を伝えているのだから、自分も慧思の恩に報いるために日本に行って一乗の思想を伝えなければならない、そういう使命感に燃えていたんだと思います。それは文献上にははっきり出てこないのですが、鑑真の弟子である思託がつくった鑑真の伝記や当時中国に伝わる慧思の生まれ変わりの説(慧思後身説)など、いろんな状況証拠からすると、おそらくかなり高い確率で正しいのではないかと私は思っています。
    一乗思想と聖徳太子の和の思想には共通点があります。十七条憲法で「三宝を敬いなさい」といっているように、聖徳太子の思想は仏教に根ざしています。一乗という言葉は使わないにしても、今の言葉で言うと多様性と調和のような思想が聖徳太子の中にはある。聖徳太子は法華経の注釈を書いたりもしていますし、やはりそういった和の思想は法華経の一乗思想から読み取ったものではないかと思います。だからこそ慧思の生まれ変わりだというような伝説も生まれたのでしょう。
    鑑真大和上は天台の書物をたくさん日本にもたらしましたが、法相宗が中心だった南都の仏教は、それよりも200年も前の古臭い天台の教えなんて必要ないと言ってそれを完全に無視します。そんなものよりも法相宗が一番だ、三論宗が一番だといって、ほかの学派もありましたけどそれぞれがそれぞれの学問を追究していました。
    当時のお坊さんは官僧というように官僚で、学問の研鑽を積んで、国の役に立つという明確な目的がありました。しかし一方でサラリーマン化している組織でもあったので、お坊さん同士で出世を競い合ったり、栄達を求めたりということも非常に多かったんです。そういうお坊さん中心の社会というのは、みんなが幸せになるという一乗の思想と矛盾するんですよね。最澄さんとしては、それではみんなが幸せになるという志を実現するのは無理ではないかという頭でいたのだと思います。

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阿純章さん(写真提供=阿純章)
■比叡山独立へ

    最澄さんは13歳のときに行表(ぎょうひょう)さんという人から「心を一乗に帰すべし(一乗を心の拠り所にしなさい)」と言われて以降、一乗を人生のテーマにしようと心に決めていました。鑑真さんが来日したのは最澄さんが生まれる10数年前だったので、当時の日本に天台宗の教えがあったことはあったのですが、おそらく最澄さんは南都の仏教の中で勉強しているうちに、南都の仏教の人たちが無視している天台の教え、しかも一乗思想がここにあるじゃないかと発掘したような感じで発見したのだと思います。
    こんな素晴らしい教えが昔からあるのに、なんでこれを元にしてみんなが幸せになるような国を作らないんだろうかと思った最澄さんは、南都の組織の中に自分も位置してしまうと一乗思想の実現ができそうにないので、ならばそこからちょっと距離を置こうじゃないかということで、比叡山にこもって修行を始めます。
    運命的なことに、比叡山にこもった翌年、ふもとに梵釈寺(ぼんしゃくじ)というお寺が立って、そこに鑑真大和上がもたらした天台の典籍(てんせき)がすべて集まったため、最澄さんは山で修行して、ふもとで天台の教えを学ぶことができました。ただ、鑑真さんのもたらした典籍には間違いもあり、読んでもはっきりわからないことも多かったために、その後中国に渡って学んで、そしてまた戻ってくるということをなさっています。
    ときどき最澄さんは法華経至上主義、あるいは一乗至上主義と誤解されますが、決してそうではなく、一乗思想を基盤に様々な仏教の教えや宗派をまとめて、この日本という国をみんなが幸せになれる国作りをしようと思っていたのです。
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円融寺幼稚園の園長でもある阿純章さん。
ある学期の終業式にて(自作のライオンキング)
(写真提供=阿純章)
■密教に対する最澄と空海の見解の違い

──最澄さんと空海さんはお二方とも密教を大切にされていたと思いますが、どのようなところが違っていたのでしょうか。

    最澄さんと空海さんには大きな違いが2つあります。一つは密教に関する考え方です。最澄さんはあらゆる教えを全部まとめて一乗である、とそういうふうにしたいと思っていました。密教で救われる人もいるし、法華経で救われる人もいるし、法相宗で救われる人もいる。いろいろな教えで救われる人がいるのだから、みんなまとめましょうと。
    しかし空海さんは、いや、密教だけで事足りるんだ、密教で救われればいいんだ、と密教一乗説を説きます。同じ密教を大切にするのでも、密教一本で行くという空海さんと、密教もたくさんの仏教の中の一つであると説く最澄さんは、その根本的な違いが明確になるにつれてだんだんと相入れなくなっていきます。
    もう一つの違いが密教の伝え方です。空海さんは面授(めんじゅ)といって、密教は知識や文字では伝えられない、人から人へ、体験で伝えるものだという主張でした。しかし最澄さんは、まずいろいろな教えまとめるために密教の経典を書き写しました。体験ももちろん大事ですけど、総合的な仏教大学を比叡山に作りたかったので、経典を写すということを最初にしたんですね。
    そこの方向性も違ってしまったために、最初は年下の空海さんに弟子入りまでして密教を学んだ最澄さんも、だんだんとそれぞれの道を歩むこととなっていきます。
    最澄さんという人は、天台宗という木を立てたというよりも、木が生えるための一乗という土壌を耕した人だと考えたほうがいいと思います。我々はあの木は大きい、あの木は小さいと木ばかり見てしまいがちなので、土壌である天台宗は地味でわかりづらく感じるかもしれませんが、最澄さんが土壌を耕したおかげで、みんなが幸せになるという一乗思想を理念とする様々な新しい木が、後世になって育っていきました。鎌倉時代には法然、親鸞、栄西、道元、日蓮(呼び捨てですみません)など、比叡山で学ばれた優れた僧侶たちが山を下りて、それぞれの教えを広められました。その結果、日本には多くの宗派が誕生しましたが、どの宗派の教えにも一貫して流れているのが一乗思想です。その思想は仏教のみならず日本の精神文化の土台になったといってもいいでしょう。ですから、最澄さんは天台宗の宗祖というよりも一乗思想という日本の精神文化の土壌を耕した方といったほうがいいのです。
    すべての人を救うのが仏教の役目でありお坊さんの役目なのだと高い志を持ったという点では、空海さんと最澄さんは当時の常識を覆した本当に偉大なお二人だと思います。一乗仏教が日本で定着したのはお二人のおかげです。

(つづく)

2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年5月24日    オンラインで開催
構成:中田亜希

(2)最澄はどんな人だったのか
(4)天台宗という仏教