〔ナビゲーター〕
前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)
〔ゲスト〕
阿純章(東京都圓融寺)
小野常寛(東京都普賢寺)
慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画「お坊さん、教えて!」。連載第2回は、天台宗の阿純章(東京都圓融寺)さんと小野常寛(東京都普賢寺)をお迎えしてお送りします。
(2)最澄はどんな人だったのか
■最澄イノベーター説
前野 ではさっそく天台宗という宗派についてお話を聞いていこうと思います。
前野隆司先生(撮影=横関一浩)
安藤 歴史ってドラマチックですよね。一方に空海がいれば一方に最澄がいる。二人は完全な同時代人で、最澄は法華経を根本経典にして、比叡山という総合的な佛教大学を作った。空海の真言宗も総合的ですけど、最澄もまた空海とは違った意味で総合的な人だったのではないかと思います。浄土宗、浄土真宗、禅宗、それから日蓮宗、これらすべてが比叡山から生まれてくるんです。鎌倉新仏教の人たちは、みな比叡山で学んで、比叡山から降りて、それぞれの宗派を立てています。比叡山は日本の各宗派の根源みたいなところがありますよね。前回、空海ロックンローラー説を提唱したのですけど、最澄からは空海とはまた違った意味で、強烈な反抗心のようなものを感じます。今までの仏教の秩序を壊して、すべての人間は平等だという強烈なメッセージを発した人なのではないかと思います。お二人は最澄という人についてどういうふうに考えられているのでしょうか?
小野 伝教大師最澄さんと弘法大師空海さんの差は名前を見ると明らかです。大師号というのは高徳な僧が天皇から贈られる尊称でして、最澄さんは伝教大師ですから教えを伝える大師ですね。空海さんは弘法大師ですから、法を広める大師です。名前は空海さんが空と海で、最澄さんは最も澄むと書きます。最澄さんは教えを後の世までいかに伝えていくかというところに特化されていて、教えが伝わったからこそ日本比叡山は仏教の母体、母なる山と言われるようになりました。
最澄さんが出現するまで、日本の仏教といえば奈良の仏教でしたが、奈良の仏教は基本的には朝鮮と中国から入った輸入仏教だと言われていました。それを日本の仏教に変えたのが最澄さんです。最澄さんは日本の仏教を作らねばという大志のもと、戒律や教えといった日本仏教の基盤を作りました。最澄さんと空海さんはお二人とも山岳修行者であり、かつ唐にも渡っているなど、いろいろな共通点がありますが、空海さんが天才型あるのに対して、最澄さんは今風な言葉で言えば、イノベーターみたいな存在だったのかなと思います。
最澄さんは密教と顕教(けんぎょう)は一緒であるという大いなる仮説を作りました。その仮説には不足している仏典などもあって、存命中には教義として完成されませんでしたが、慈覚大師や智証大師など後世の高僧がそれを補って完成させていくための基盤を作った、本当にもっとも澄んだ、純粋な方だったのだろうと思っています。普賢寺の前にて小野常寛さん(写真提供=小野常寛)
■一乗思想
前野 仮説についてもう少し詳しくご説明いただけますか?
小野 聖徳太子の「和を以て貴しとなす」に表されている和の仏教を作るのが日本仏教の定めだというふうに最澄さんは考えたと思うんです。ですから、法華経も密教も浄土も禅も、それから神道も、法華経の立場から見るとすべて同じ概念であると言い切っていました。
空海さんは、法華経より密教のほうが優れていると十住心論(じゅうじゅうしんろん)の中で書かれていますが、最澄さんはすべて同じだと言い切っている。そういう和の仏教が、日本においても作れるという大いなる仮説を作った人だと思うんです。仮説と言っても最澄さんご自身は確信に近いと思いますが。
阿 最澄さんは当時の固定観念を覆して新しい仏教、新しい仏教というよりも新しい国、新しい世界を作ろうという大きなスケールを持っていた方だと思います。我々天台宗の中からすると宗祖というイメージで捉えてしまいますし、比叡山も南都の仏教から離れて、天台宗という宗派として独立した山というイメージで捉えられがちですが、最澄さんご自身はそんな思いはさらさらなくて、別に天台宗を立てるために教えを説いたわけではなく、みんな一人ひとりが幸せになれる世界を作りたい、そういう大きな理想を抱いて新しい道を切り開いて、今の日本の精神文化の土台を築いてくれた方ではないかと私は思います。
天台宗という宗派は最澄さんよりも200年前に中国でつくられた宗派で、中国でも日本でもたいへん伝統的な仏教です。なぜその伝統的な仏教で常識を覆せるのか、そこがわかりづらいところかもしれません。
それを説明するために中国の天台宗の成り立ちについてお話します。
先ほど安藤先生が仰ったように、天台の特色はありとあらゆる仏教の教えをまとめた綜合仏教であるところです。中国天台宗の開祖は6世紀の半ばくらいに中国で活動した天台智顗(てんだいちぎ)で、天台宗を開いた理由は仏教を綜合的に整理するためでした。
仏教は一言でいうと仏の教えであり、仏になる教えです。仏の教えはいわば知識で学ぶ教えで、仏になる教えはいわば修行の教えです。この2つがあってはじめて仏教と言えるわけです。
実践がないまま学問の仏教ばかりやっているのは、ガイドブックばかり見ていて旅行に行かないのと同じですし、実践ばかりで学問をやらないのは、ガイドブックを持たずに旅行にぽーんと出てしまうような無謀なことにもなります。だから実践仏教と学問仏教は両方必要なのです。
また仏の教えは八万四千の法門(はちまんしせんのほうもん)といわれていて、経典も聖書やクルアーン(コーラン)のように1つだけというわけではなく、時代によって、あるいは地域によって釈尊の教えはこうである、ああであると解釈され、たくさんの仏典が作られました。実践行も、瞑想法があったり念仏が出てきたりと無数にあります。
当時の中国はインドや西域地方から長い時代をかけて熟成されてきた仏教の教えや実践法が一挙に伝わってきたために、それらをどう矛盾なく理解していいか混乱している有り様でした。また北朝と南朝に分かれていて、北は北方民族が支配していて実践仏教が盛んであり、南は北から逃れてきた漢民族が貴族社会を作って知識的な学問仏教が盛んであるという、アンバランスな状況でもありました。天台智顗は南朝の人ですが、ちょうど北朝との間に位置する湖北省にいて、慧思(えし)という人物から北地の実践仏教を学び、それを土台に実践仏教を綜合し、それから学問仏教を綜合して、さらには学問と実践の仏教を綜合しまとめていくということを行ったわけです
それが天台智顗の大きな業績です。しかもただ綜合したのではなく、天台智顗の根底には一つの理念がありました。それが先ほどの常寛さんが仰った仮説につながると思うのですけど、一乗思想(いちじょうしそう)という理念です。法華経の中で一仏乗(いちぶつじょう)ともいわれていますけど、一乗というのは一つの乗り物を表しています。あらゆる存在すべてが仏という一つの乗り物に乗っている。だから、誰も取りこぼすことなく、みんなが平等に仏の世界に行くことができる。行くというか、もう仏の世界にいるんですよね。
それに気づかないでみんなバラバラにいるけれども、実はみんながすでに同じ仏の世界にいるのだから、それぞれがそれぞれの場所にいながら仏として生きればいい、という教えなんです。
ただ、自分が仏であるということにはなかなか気づかないので、その人その人の立っている場所に応じてそれぞれの教えが必要だということになるわけです。
天台智顗の有名な言葉に、一目羅不能得鳥(一目の羅、鳥を得ること能わず)という言葉があります。一目は一つの目ですね。羅は網のことですけれども、網目が一つであったならば、鳥を捕まえることはできない。たくさんの網目があるからこそ、多くの鳥を捕まえることができる。それと同じように、仏教もたくさんの教えがあるからこそ、多くの人を救いとることができるのだ。ただ一つの教えだけではだめなんだ。その人その人に合った教え手立てを講じて、一つの乗り物にいるということを気づかせてあげよう、そしてそこで仏の国にみんなで住んでいるということをちゃんと気づかせてあげましょうよ、と。そのために仏教のさまざまな教えと実践行をまとめたわけなんです。都区内最古の木造建築・圓融寺釈迦堂(重要文化財)(写真提供=阿純章)
■止観とは何か
阿 一乗思想というものをこの世界でどうやって体現するかというところで、修行が大切になります。その修行が止観です。最近、ヴィパッサナーやサマタ瞑想などの瞑想法、あるいはマインドフルネスなんかも流行っていますけれども、それらの淵源(えんげん)になる止観というものをもとにして、そこにさまざまな仏教修行を導入して、天台智顗は一つの綜合的な仏道修行の体系を作り上げました。いわば究極の悟りマップみたいなものですね。
──止観について詳しく教えていただけますか。
阿 止観の「止」は心の動揺を止めること、「観」はありのままにものごとを観察することです。止はサマタ、観はヴィパッサナーとも言いますね。大智度論(だいちどろん)という経論の中には、瞑想には止の修行によって得られる定(禅定)と、観の修行によって得られる智慧の両方が必要であると書かれています。譬えとして衝立(ついたて)と蝋燭の灯(あかり)の関係性でそれを説明しています。つまり衝立がなければ風に揺れて火が消えて観察することができない。衝立があることで火が保たれて、ありのままに見ることができる。だから二つで一つなんですね。
観察をするときに止が必要なのは、立ち止まって観察してはじめて、ありのままに今あるものを感じることができるからです。我々は頭の中で過去に行ったり未来に行ったりして、目の前の現実に対して様々な解釈を加えますけど、もともと今ここにしかいないわけですから、今ここに戻ってありのままに観察してみることが大切なんです。
観察というと、通常は自分が何か対象を観察するイメージですけど、今ここの感覚でありのままに観察してみると、自分はいないんですよね。これは言葉で説明してもわかりづらいのですけど。
頭の中では、自分があってその外側に世界があるというのが前提になっていて、自分と外側を分けてしまいますけど、今ここに戻ってみると、いくら探しても自分はいないじゃないですか。自分というのは記憶や言葉でしかないですし、見たり聞いたりしているのも、脳がそれを受信して頭の中で総合した再現ビデオを見ているだけなのです。
今ここでただ感じてみると、自分と外側の世界という区分けはない、境界線がないということがわかります。そこに本当の真実があるのだというのがヴィパッサナー瞑想の考え方です。そのためにはサマタ瞑想というものも必要になるんです。
自分というものはこの世界には存在せず、存在しない自分が感じている世界を観察する。言葉で言うと非常に難しいですけど、実際やるともっと難しいんですよ(笑)。
これが天台の止観です。禅やヨガやマインドフルネスなど、あらゆる瞑想の中に止観の要素があります。アプローチや説明の仕方が少し違うだけで、境地としては同じではないかと思っています。
(つづく)
2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年5月24日 オンラインで開催
構成:中田亜希(1)僕たちはなぜお坊さんになったのか
(3)一乗思想