【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは寂しさや悲しみについてです。
[Q]
長老の本では「怒り」については詳しく書かれていますが、「寂しさ」「悲しみ」について詳しく書かれたものがありません。どちらも〝怒り〟カテゴリーで、怒りから派生しているものだと理解していますが、この「寂しさ」「悲しみ」に対して、どのように対応したらいいのでしょうか?
[A]
■人生とセットになっている気持ち
「寂しさ」というのは依存から起こる気持ちで、少々ややこしいのです。生きるとは依存することです。何かに依存しなければ命は成り立ちません。全ては無常ですから、依存しているものはいずれ無くなってしまう……つまり、必ず「寂しく」なるということになります。ですから、「寂しさ」は生きることとセットになっていて常に感じることなのです。
「悲しさ」も同じ意味になります。例えば、誰かが亡くなって悲しいと思うのは「その人に生きていて欲しかった」ということです。しかし無常ですから、ずっと生き続けるわけにはいきません。ということで「悲しさ」も生きることとワンセットになっています。生きるとは、寂しさ・悲しみという気持ちとパッケージになっているものなのです。
■依存が減れば、寂しさ・悲しみも減る
仏教では、この依存度をどんどん下げて緩めていきなさいと教えています。そうすると、寂しさ・悲しみは消えていきます。例えば、親しい人が亡くなると悲しく感じます。そこで「死は当たり前のことだ」「誰だって死んでいく」「歳を取って老いていかない者はひとりとしていない」と理解して依存度を緩めてみるのです。現実を受け止め、どんどん理解していくと依存度が低くなってゆき、寂しさ・悲しさが減って心穏やかに、落ち着いて生きていることができるようになります。アビダンマ(仏教心理学)では、寂しさ・悲しみは怒りの一種として分類します。根本は現象に対して「イヤ/反発/拒絶」という反応・気持ちの現れですから、怒りの分類になるのです。しかし、寂しさ・悲しみの対処方法は、怒りのそれとは少し違うことになります。
■寂しさ・悲しみの解毒剤は智慧
怒りの解毒剤は慈しみを育てることです。怒りは我を張ることで起こります。世間の現象を自分の希望どおりにしようとして、失敗したところで起こる感情が怒りです。ただ、寂しさ・悲しみを制御する場合は、慈しみは解毒剤になりません。それは自分がさまざまな現象に依存して生きているせいで起きる結果だからです。依存していた対象は無常なのでいずれ消えてゆき、その時に寂しくなったり、悲しみを感じたりします。寂しさ・悲しみなどが精神的な問題を引き起こすところまで大きくなったら危険ですから、それらの感情はなるべく早くなくしましょう。
「全ては無常だ」「消えてゆくものだ」「自分の希望どおりにならないものだ」「いつまでも他の現象に依存していることは不可能だ」などと観察しなくてはいけません。それは真理を観察することになります。要するに、寂しさ・悲しみなどの解毒剤は「智慧」です。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:こころ編2』