〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
朝野倫徳(阿弥陀寺)
長澤昌幸(長安寺)

慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第6回は、時宗の朝野倫徳さん(阿弥陀寺)と長澤昌幸さん(長安寺)をお迎えしてお送りします。


(4)念仏の違い


■信じていなくても救われている

──浄土宗、浄土真宗、時宗のお念仏は、どのような違いがあるのでしょうか?

朝野    そうですね、念仏を一生懸命努力して唱える、その態度が大事であるという立場もありますし、数が大切であるという立場もあります。そうではなく、本当に信じていれば、信があれば一回の念仏でも西方浄土へと往生できるという立場もあります。
    そして、一遍さんに至っては「信じてなくてもいい」と言っています。宗派の中で、いや世界の宗教の中でも「信じていなくても救われる」と言っているのは時宗ぐらいだと思います。

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朝野倫徳さん(写真提供=朝野倫徳)
前野    そこまで極端なんですね。

朝野    お札を渡すのは、「信じていなくても救われていますよ」という気づきのきっかけを差し上げるためですが、それも拡大解釈していけば、世界中の人々が救われているという話になります。時宗だろうとなかろうと、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が本願を立てられて阿弥陀仏となった時点で、もうみんな救われているのだと。
「信じたら救われますよ」という教えではないので、世界の宗教の中でも特殊だと思います。要は時宗に入らなくていいということですからね。もちろん、前野先生も救われています。

前野    本当ですか。一遍さんは「世界中の78億人すべてが救われていますよ」ということなんですね。

朝野    極論すればそうです。

前野    極論すると全員救われていると。でも、実際苦しんでいる人はたくさんいますよね。

朝野    救われていることに気づいてないのです。

前野    それでお札が気づきのきっかけになる、ということなのですね。

朝野    そういうことです。


■「すでに救われている」ことを伝える旅

朝野    一遍上人の時代は鎌倉幕府という軍事政権の時代で、海の向こうから元寇は来るし、至るところに死体もあるという凄まじい時代でした。しかも今と違って仏教というのは庶民にはまったく手が届かないものでした。

前野    そうなんですか。

朝野    学ぶ機会がまずありませんでした。一遍上人は聖として全国を回りましたけども、それは例外中の例外で、普通はだいたいお坊さんはお寺におりますので――流罪になって地方に行くというケースはありましたけど――地方にまで教えに来てくれるなんてことはありませんでした。
    ですから当時は皆、生きていても不安、死んだ後も地獄に落ちるのではと皆、不安に怯えていたわけです。
そんな状況のなか、「いや、地獄になんか行きませんよ。あなたは救われているのですよ」と伝えるために全国を旅されたのが一遍上人です。35歳から50歳まで旅をなさって、最後は過労死だったと言われているほど勢力的に全国を回られました。北は岩手県の今でいう北上市、奥州市のあたりから南は九州までです。
    このように広範囲に旅ができたのは、もともと河野水軍という海の侍ですから、自在に船を使えたことも大きかったようです。

前野    お札配りをきっかけにして庶民の人たちに南無阿弥陀仏とは何かを広めることによって、何か気づきのスタートを与えたいと思った。そういうことなのでしょうか。

朝野    そうですね。不安でしょうがない民衆の方々を救いたい、衆生済度(しゅじょうさいど)と言いますけれども、そういう思いが強くて、じっとしておられずに全国を回られたのではないかと思います。


■お札配りができるのは遊行上人だけ

朝野    一遍上人がお配りしていた「南無阿弥陀佛決定往生六十万人」という小さいお札があるのですが、本山ではいまだに同じものをお配りしております。
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一遍上人が配られていた賦算札。今もなおこのお札が遊行上人によって配られている
(写真提供=長澤昌幸)

    あいにく今はコロナの影響でやっていないのですが、通常は朝早くに行けば、どんな方でも遊行上人74代からお札を受け取ることができます。
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お札を配られる遊行上人74代(写真提供=長澤昌幸)
    今年(2021年)の6月に遊行上人は満102歳になられましたが、まだまだ健在で頑張っております。(※編集部注    遊行上人74代は2021年12月9日に遷化されました。謹んで哀悼の意を表します。)
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溌溂と法話をなさる遊行上人74代(写真提供=長澤昌幸)
前野    朝野さんや長澤さんも普段は一遍さんのように「信じなくてもいいからお札を受け取りなさい」というようなお札配りの活動をされているのでしょうか?

朝野    それはないですね(笑)。仮にやってしまいますと、時宗を破門されます。

前野    えっ、やっちゃいけないのですか?

朝野    やるのはお上人(遊行上人)だけ、ということになっておりまして。

前野    そういうことなのですね。

前野    では時宗の皆さんはどういう修行をしていらっしゃるのでしょうか。たとえば禅宗ですと座禅を組んで、いかにも修行をしていらっしゃる感じがしますけれども、時宗の場合、信じなくても救われるわけですから、お札配りをしないとしたら、皆さんはいったい何をしていらっしゃるのかなと思ったのですけど。

朝野    時宗に限らず、浄土系はそこを突かれますよね。たとえば浄土真宗の場合ですと御聞法(ごもんぽう)といって、お説教を通して教えを広めることをやっていらっしゃいます。時宗の場合は、ある時期まではお説教にもあまり力を入れていませんでしたが、現在はやはりお経だけでは伝わらないので、お話を通して皆さんに一遍さんのエネルギッシュな生涯や考え方に触れていただけるようにするのも、時宗教団に身を置くものの努めであると思ってやっております。

前野    なるほど。長澤さんもお札はもちろん配らないのですね。

長澤    私たちはお札を直に触ることもできません。直接お札に触れるのは遊行上人だけで、もし仮に私たちがお札を持つ必要がある場合は、「お包み」と言いますけれども、お札を包んで、という形になっております。

前野    それだけ大切なものなのですね。


■仏様の誕生と私たちの往生は同時に完成している

長澤    阿弥陀仏という仏様の誕生の条件は、私たち衆生が救われることでした。ですから、現に阿弥陀さんがいらっしゃるということは、私たちが往生できているということになります。だから、私たちがお念仏をする必要はないのです。
    仏さんの悟りと私たちの往生が同時に完成していることを往生正覚同時倶時(おうじょうしょうがくどうじくじ)と言います。證空上人(しょうくうしょうにん)はこれを理解する必要がある、領解(りょうげ)する必要があると仰いました。
    往生正覚同時倶時を人々に伝えるときに、私たちは非常に簡単に「信じなくてもいいんだよ」と表現していたのですけれども、そうするとやはり、「じゃあ、何もしなくていいじゃないか」となってしまうので、伝え方が非常に難しいと感じているところです。
    たとえるなら、お念仏はエンジンでしょうか。私たちは車も免許も持っていて、あとはエンジンをかけるだけ。お念仏を唱えればそのエンジンがかかるのだと。それを伝えることが大事ではないかと私自身は思っています。


■一遍上人は断捨離のパイオニアではない

長澤    ちなみに一遍上人は「捨聖(すてひじり)」とも尊称されますので、断捨離が流行った頃はよく、「一遍上人は断捨離のパイオニアである」というような表現をされました。しかし、これは明らかな間違いです。
    一遍上人の「捨てる」というのは家族や故郷を捨てるということではなく、「南無阿弥陀仏に任せ切ること」です。一遍上人ならではの独特の表現ですね。
    一遍上人の教えというのは、誰もが救われる、誰でも救われている、という教えです。でも私たちは救われているかどうか、やっぱり不安になってくるじゃないですか。一遍上人は「その心を捨てなさい、信じる心も信じない心も捨てて唱える念仏が大事なんだ」というふうに言っています。


■往生するための念仏ではない

前野    浄土系なので浄土宗も浄土真宗も時宗も似ているけれども、念仏を唱えることに関して、それぞれ微妙に表現が違うという感じなのでしょうか。

朝野    浄土教というのは、浄土に往生する、浄土に行って生まれるということですが、時宗の場合は、「浄土に生まれ変わりたいから南無阿弥陀仏と唱える」というスタンスではなく、もう浄土に行くことは決まっていて、「南無とお唱えすると感じられるでしょう、あなたがもう救われていることが」というスタンスです。
    一遍上人は「阿弥陀仏より南無が大事だ」と言い切っているくらいです。当時は戦乱の世で不安だらけ、死体だらけでしたが、南無阿弥陀仏と一声強く唱えたならば、この世は濁世(じょくせ)ではない。もう浄土なのだ。濁世と浄土は地続きなのだ、と一遍上人は言われました。
    一遍上人は修行時代に、空海さんも修行した岩屋寺(いわやでら)という山で一年ほど修験のような修行もしておりますので、根本に何かアニミズム、自然崇拝の心もお持ちでした。
「よろず生きとし生けるもの山河草木吹く風立つ波の音までも念仏ならずと言ふことなし」という一遍上人の有名な歌があります。草木も波も風の音まですべてに念仏が溶け込んでいますよ、と。それを南無阿弥陀仏と唱えて感じ取ればここはもう濁世じゃなくて浄土でしょうという内容ですね。
こういった歌からも一遍上人の思想がうかがえると思います。

(つづく)

(3)一遍上人の生涯を振り返る
(5)踊り念仏と時宗