〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
朝野倫徳(阿弥陀寺)
長澤昌幸(長安寺)

慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第6回は、時宗の朝野倫徳さん(阿弥陀寺)と長澤昌幸さん(長安寺)をお迎えしてお送りします。


(3)一遍上人の生涯を振り返る


■河野水軍の一族として

前野    時宗の宗祖である一遍上人という方について基礎から教えていただけますか。一遍上人はどんな方だったのでしょうか。

朝野    長澤さんは宗学林(しゅうがくりん)の前学頭(がくとう)――修行僧が勉強する学校での校長先生――ですから、アカデミックに一遍上人の生涯を振り返るなら長澤さんが適任かと思います。

長澤    先だって、『構築された仏教思想    一遍:念仏聖の姿、信仰のかたち』(佼成出版社)という本を出したところですので、それもぜひ読んでいただきたいのですけれども。というと本の宣伝になってしまいますが(笑)。

一遍-s.jpg 59.21 KB
『構築された仏教思想    一遍:念仏聖の姿、信仰のかたち』(佼成出版社)
    一遍上人という方のお生まれは現在の愛媛県です。愛媛には河野水軍という家がありまして、源平の合戦で源氏が勝利を収めた一番の原動力と言われています。その中心にいたのが一遍上人のおじいさんである河野通信(こうのみちのぶ)です。その後、承久の乱が起き、河野家の大半が上皇側について没落していく中で、1239年に一遍上人が生まれました。覚え方は「一遍にサンキュー」です。これは私の恩師の長島尚道(ながしましょうどう)先生の受け売りですけれども(笑)。
    お生まれになった一遍上人は10歳で出家します。お母さんが亡くなったことを機縁にして、と言われていますが、やはり家が没落していたという事情も大きかったのではないかと思います。
    ただ、珍しいというか不思議なのは比叡山には登られていないことです。一遍上人は比叡山ではなく、太宰府に修行に行かれました。法然上人のたくさんいるお弟子さん一人である証空(しょうくう)さん――浄土宗西山派と派祖(はそ)ですけれども――のお弟子さんである聖達(しょうだつ)さんという方が太宰府におられて、そこに修行に行かれました。そこで浄土教を聖達さんと、その兄弟弟子の華台(けだい)さんに学んだ後、お父さんである河野通広(こうのみちひろ)という人が亡くなったのを機に一度伊予に帰られます。


■遊行の旅

長澤    伊予に帰られた一遍上人は家族を持ち、家庭にありながらお坊さんの生活もするという半僧半俗の形をとります。一遍上人はその後、家族と分かれて再出家したと言われていますが、妻帯したときも出家という立場はずっと継続していました。ですからなぜ「再出家」という表現になったのかは、我々の研究課題として考えるべきことでもあります。
    一遍上人は善光寺さんへお参りに行きます。そして、帰ってきてからは3年ほど念仏三昧の生活をして、それから遊行の旅に出られました。家族と離れて旅に出られる際、自分が持っていた財産はすべて仏さんに寄付されたようです。
    当時極楽の東門の中心と考えられていた四天王寺を訪れた一遍上人は、本尊に念仏勧進の願を立てて、それを生涯の使命とされました。一遍上人は遊行で出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書かれた念仏札を配られます。これがいわゆる賦算(ふさん)です。


■立教開宗

長澤    その後、一遍上人は熊野大社にお参りに向かわれます。その道中、一人の僧に出会います。一遍上人は「一念の信を起こして、このお札を受け取るべし」とお札を渡そうとするのですが、「信心が起こらないので受け取れない、もしもらったら嘘になるから無理だ」とその僧に拒まれます。
    押し問答をしているうちに、人がどんどん集まってきます。一遍上人は、ここでこの僧が念仏札を受けなければ、周りにいる他の人も念仏札を受けないのではないかと思い、「信じなくていいからもらってください」と無理矢理お札を渡します。
    無理矢理お札を渡したことに対して、一遍上人は深く悩まれます。
    自らの布教方法に疑問を持った一遍上人は、熊野本宮証誠殿(くまのほんぐしょうじょうでん)に参籠し熊野権現の啓示を仰がれます。すると、山伏姿の熊野権現が現れて次のように示されました。

「融通念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。南無阿弥陀仏ととなえることによってすべての人々が極楽浄土に往生することは、阿弥陀仏が十劫という遠い昔、正しいさとりを得たときに決定しているのである。信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、人を選ぶことなくその札を配るべきである。」

    遥か昔、阿弥陀さんという仏様が誕生したときに、南無阿弥陀仏というお念仏によって衆生が救済される(往生できる)ということは決まっているのだ。だから、信じる、信じないというのは問題ではなく、とりあえずお札を配りなさい、と勧められたわけです。
    そこで一遍上人はハッと気づいて、それからは迷いなくお念仏のお札をお配りになったと言われています。
    この時点を時宗では「立教開宗(りっきょうかいしゅう)」と言います。この時点で時宗が開かれた、ということです。

朝野    河野水軍というのは、かつて村上水軍も下に従えていたほど大きな勢力を持っていた海の侍でした。ですから、元々神社にお参りすることに対して一遍さんは抵抗がなかったのかもしれません。また、その時代には本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という、元々は仏様だけれども、今は神様の格好をしているのだという思想がありましたので、熊野山はある意味阿弥陀信仰のメッカでもありました。いわば阿弥陀信仰の聖地です。だから、一遍上人がお札を配れば当然、皆さん喜んで受け取ってくださったわけです。
    だからこそ、一人の僧侶には断られた、ということが一遍上人には衝撃的で、大いに悩むことになったのではないかと思います。


■時衆の発生と踊り念仏の始まり

長澤    一人で遊行をしていた一遍上人でしたが、九州で大友頼泰(おおともよりやす)──のちの大友宗麟(おおともそうりん)の先祖ですけれども──の館で他阿弥陀仏(たあみだぶつ)というお坊さんと出会い、他阿弥陀仏を最初の弟子とします。それをきっかけに、お弟子さんの集団、時間の「時」に大衆の「衆」と書いて「時衆(じしゅ)」という集団が生まれました。
    その後も一遍上人は旅を続け、長野県の佐久でお念仏をしていたときには、念仏に合わせて突然踊り出した人に出会いました。一遍上人は、驚きつつもそれを止めずに、拍子を叩いて音頭をとったそうです。それが踊り念仏(おどりねんぶつ)の始まりであると言われています。踊り念仏は、このように自然発生的に出てきたものでしたが、だんだん形式化していって、時宗の一つの布教スタイルになっていきました。
nagasawa_z2-s.jpg 155.79 KB

■神戸にて生涯を閉じる

長澤    北は岩手県から南は九州鹿児島まで、全国を旅した一遍上人は、最後、兵庫県神戸市にあります、現在の真光寺(しんこうじ)という時宗の寺院がある場所で、亡くなりました。真光寺は総本山でも大本山でもありませんが、そこに宗祖の御廟(ごびょう)がございます。
    十三宗五十六派(じゅうさんしゅうごじゅうろっぱ)というように、日本にはたくさん宗派がありますが、だいたい一宗の本山というのは宗祖の御廟から発展しています。たとえば浄土宗さんでいうと知恩院(ちおんいん)さんには法然上人の御廟がありますし、浄土真宗さんの本願寺さんは親鸞上人の御廟が元になって発展しました。しかし時宗の場合は総本山が宗祖にまったく関係のないまま成立しているのが珍しいところです。

前野    昔の仏教に比べて誰でも救われるという方向に大きく舵を切ったのが、法然上人の「念仏を唱えるだけで救われる」という浄土宗であり、それをさらに進めたのが「悪人でも救われるんだよ」という親鸞上人の浄土真宗で、一遍さんは踊り出した人がいたら踊ってもいいじゃないかと、その範囲をさらに広げたということでしょうか。広げたから、アットホームに蔵王でスキーをしたり、お寺に生まれた子どもたちが楽しく交流したり、というような文化も生まれたのかなと感じたのですが、もしかしたらそういうことなのですかね。

朝野    そうですね、確かに時宗にはこうしなければいけない、というのがあまりありません。それがゆるさを産んでいるのではないかと思います。

(つづく)

(2)他宗派での修行を経て時宗僧侶となる
(4)念仏の違い