アルボムッレ・スマナサーラ(初期仏教長老)
サンガ新社は、アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書『無常の見方』『苦の見方』『無我の見方』を2023年11月に刊行しました。本書の刊行を記念し、2024年1月16日、スマナサーラ長老に「無常」「苦」「無我」のポイントを教えていただきながら、一緒に読み深めていくオンラインセミナーを開催しました。仏教の最重要語である「無常」「苦」「無我」の3つの繋がりを理解していきましょう。
第3回 悪循環からの脱出
■真理に逆らう
我々は「生きている」と思っていますが、生きるというのは真理に逆らうことです。つまり、ありえないことに挑戦することなのです。
そうするとどうなりますか。楽に生きられないのです。
何かに逆らうというのは大変ですよ。たとえば湖の上を歩いてやるぞ、と思っても無理ですね。火を触っても火傷しないぞ、と思ってもそれは無理です。
生きるということは、文字通り「無常に逆らう」ことです。細胞の寿命って短いんですよ。細胞はずっと変化して壊れて、そして代わりに新しい細胞が生まれます。3カ月か半年も経てば自分の身体は別の身体に変わっています。生きるためには呼吸をしなくちゃいけません。酸素がなければ、細胞は弾けて死んでしまいます。2、3分も呼吸しないでいればそれで命は終わりです。
すべて無常で成り立っているのに、私たちはそれに逆らいたいと思っている。若いときは体力も知識も能力もどんどん増えていた。だから年を取ってそういったものが減っていくのを嫌だと思ってしまうし、細胞の機能がおかしくなることも嫌がる。それで私たちは苦しみを感じてしまうわけです。
人間だけではありません。生きているものは何だって真理に逆らおうとしています。
でもそれってやめたほうがいいんじゃないですかね。「地球が自転するのは嫌だ、自転を止めてやるぞ」と言ってもどうやって止めますか。ありえないんです。
人は1個の細胞で生まれますが、無常だからその細胞が40兆ぐらいまで増えて、また減ったり増えたりしてそれでなんとなく命が成り立っています。
命と違って物体は無常に逆らいませんよ。でも私たちは無常に逆らいます。私のかけているメガネには「ああ、大変だ」ということは全然ない。メガネは絶対に無常に逆らわないからです。
金属でできたものが腐食していくと、我々はそれを磨いてまたピカピカにしようとしますね。まあ1週間に1回でもちょっと磨きましょう、ということになっちゃうんです。
だから人間は苦しいんです。
物質は自然法則で変化していきますが、物質自身はどんなふうに変化するのか気にもしません。植物にしてもどんなふうに変化するかわかったもんじゃないですよ。どんなふうに変化してもまあいいんです。
■生きることは失望の連続
すべての生命は、犬も猫も含めてなぜ無常に逆らっているのでしょうか。
そこに「心」という問題が出てくるのです。
心というのは知る能力です。知る能力によって生命はいろいろなことをしようとします。でも無常に逆らうことはそんなに簡単ではありません。体力を維持しようと思えば毎日スポーツセンターに行って運動しなくちゃいけないでしょ? でもやったところで年は取ります。でも心はそれに逆らいたいんです。逆らって頑張ろうとする。でも頑張るたびに失敗するのです。
だから生きることは失望の連続です。「たくさん食べなきゃ成長しませんよ」と言われて育ちますけど、結局は食べると身体が壊れていきます。いろんな病気になったりとかね。だから、食べるときにも失望を感じたり、何をやっても嫌だなと怒ったりすることになるのです。
無常に逆らうことを執着といいます。花は無常だから美しいですね。花は恐ろしく速く変化します。しかし我々は切り花を1週間でも枯らさないようにと、いろいろ工夫します。
生きることは、ずっと戦いです。戦いと一緒に失望もあります。
だからお釈迦様は「理性を持って、智慧を持って、生きることを観察しなさい。そのほうが楽だよ。渇愛がないほうが楽だよ」とおっしゃっているのです。
死にたくないというのは無意味な話です。細胞が壊れることで命が成り立っているのだから、死が消えると命もなくなってしまうのです。
死ぬから命なのです。言葉でそう言われると矛盾を感じるかもしれませんが、実際は何の矛盾もありません。
米を洗って炊飯器に入れると、米が無常だからご飯になる。ご飯を食べたらご飯は永久に消えてしまいます。
何を見てもどこを見ても無常で、永久に元には戻りません。自分の命についても同じことが言えます。しかし、それでも死にたくないという気持ちが生まれるのですね。これでバカを見るのです。限りない苦しみの循環に入ってしまうのです。
■涅槃=存在の悪循環からの脱出
お釈迦様は、人間には理解できない、人間の認識レベルを超えた、精神的に安定した状態を教えています。
激しい流れがいったん停止して、ありとあらゆる苦しみが消えた状態、お釈迦様はそれに涅槃という言葉を使いました。
涅槃の状態になれば、我々は「存在の悪循環」から脱出できます。
脱出したらどうなるかということは考えなくてもいい、我々が目指すべきは涅槃の境地なのだよ、というふうにお釈迦様はおっしゃっているのです。
ブッダの教えというのはけっこう難しいんですよ。一見、子供でも理解できそうなくらい簡単そうだと錯覚してしまいますが、それがお釈迦様のやり方です。皆に「あ、これはやればできそうだ」という気持ちにさせるんですね。
そういうふうに説法できるのはお釈迦様だけだったと言われています。私が調べてみても、お釈迦様のような言葉の使い方をしている人は他に見つかりませんでした。実際にパーリ経典を読んでみると、「ああ、わかります。やればできそうですね」と、皆がそういう気持ちになるのです。
立派な先生というのは、生徒たちに「自分もやればできるはず」と気持ちにさせるでしょう。だから生徒たちは喜んで頑張って勉強します。逆に先生の話を聞いて「わかりにくいなあ」とか「先生はなんか変な難しいことばかり言ってるなあ」と思ってしまうと、生徒たちは「勉強よりゲームをやったほうがいいや」という気持ちになってしまいます。
お釈迦様はおっしゃいました。「自分は一切の存在の、この上のない師匠である」と。
お釈迦様の直々の話は、英訳で読んでも、和訳で読んでも本当にわかりやすいです。「やればできそうだなあ」と誰もが思ってしまうのです。
■認識の変化を解脱と言う
一切生命のこの上のない師匠であるお釈迦様は、無常・苦・無我という誰にでもわかる単語を使って説法しました。
現代文化というのは、まあキリスト教文化です。キリスト教というのは進んだ哲学でもなんでもなくて、昔のユダヤ人の原始的な考えです。「誰かが作らなきゃ、ものは存在しない。だから誰かが作らなくては」といういい加減な考えです。
なぜそのように思うのでしょうかね。「神は最初に作った人間に、命の息を吹きこんだ。それが精神、sprit、魂、霊魂である」と言いますけど、なぜbreathe outするだけなのでしょうか。Breathe inはしないのだと偉そうなことを言ったり、「我々は懺悔して、魂を浄化して神の赦しをいただいて永遠不滅の状況にならなくちゃいけないんだ」と言っているのを聞くと、いい加減にしなさいと言いたくなりますね。
そういった昔の妄想、哲学は矛盾で終わるだけです。
しかし仏教はそうではありません。すべての存在の真理を発見し、それだけではなく、生きている生命は真理を理解して、逆らうことをやめなさいと説いているのです。
その認識の変化を解脱と言います。
■クラウドファンディングという善行為
私の話はこのあたりで終わりたいと思います。
最後になりましたが、皆様には真面目に感謝したいのです。
若い身体でも変化する。年を取っても変化する。身体が壊れても変化する。限りなく変化する。執着があるから死んでもまたどこかの素粒子に引っかかって、また身体を作ることになる。お釈迦様の智慧は、この悪循環を脱出するために必要な智慧です。
我々は、人類に必要な智慧を、なんとかして広げなくてはいけません。そうしなければ皆、暗闇の中で、苦しみの中で生きて、惨めに死んで、またリピートすることになってしまいます。
クラウドファンディングにご協力くださった340名の方々は、最高の善行為に参加しました。損得しか頭にないこの世の中で、ブッダの言葉を出版することは大変難しいことです。
そういうわけで皆様の協力が偉大なる善行為であることは確かです。
皆様本当にありがとうございました。
(第4回につづく)
2024年1月16日 zoomにて開催
『無常の見方』『苦の見方』『無我の見方』刊行記念オンラインセミナー
「アルボムッレ・スマナサーラ長老と『無常の見方』『苦の見方』『無我の見方』を読む」
構成:中田亜希
第2回 無常・苦・無我という三つの「見方」
第4回 質疑応答
お知らせ
仏教の最重要語が理解できる!「人生を変える3冊」を増刷しました!
サンガ新社では、2023年にクラウドファンディングを通じて復刊したスマナサーラ長老の著書 『無常の見方』『苦の見方』『無我の見方』の3冊を、2025年1月に増刷しました!
各書籍のAmazon販売ページを以下にご紹介しますので、ぜひお読みになってみてください。
『無常の見方: 「聖なる真理」と「私」の幸福』
『苦の見方: 「生命の法則」を理解し「苦しみ」を乗り越える』
『無我の見方: 「私」から自由になる生き方』