第3回 人生は混沌がデフォルト、それがドゥッカ
タイ国立の仏教大学であり世界中の僧侶・仏教徒がテーラワーダ仏教を学ぶために集うマハチュラロンコーン大学(通称マハチュラ大)大学院に在籍する学生であり一児の母、タイ在住16年のだるまいこ氏が、タイの内側から見たタイ仏教の風景を伝える仏教エッセイ、第3回。
■聖人じゃないから生まれて、今ここにいる。
美意識の高い日本人は完璧主義の人が多く、何事にもハードルを高く設定する傾向があるのではないかと思います。何を隠そうわたしも昔はそうでした。瞑想を実践するときもいきなりブッダを目指し、英語は発音がネイティブになるまで恥ずかしくて話せないと思っていました。自分自身に対しても、他人に対しても期待値が高く、それが原因で自分はダメだと責めては落ち込んで苦しんでいました。
でも大学のサンガ(僧団)では、みんながブッダのように振る舞うことを誰も期待していませんでした。国籍も宗派も入り混じっていましたが、そこには共通した「わたしたちは聖人じゃないから生まれてきた」という理解がありました。だからと言って、聖人じゃないから何をしてもいいというわけではなく、「聖人に近づきたくてここに集まっている」という前向きな姿勢もまた前提です。
日本ではお坊さんだけでなく、指導者や著名人は聖人のように振る舞うことを期待されます。もしくはその取り巻きであっても、コミュニティ内では雰囲気に沿うような態度を少なからず期待されます。暗黙の制限があっておちおち発言もできず、期待に応えることがプレッシャーになるとフェードアウトするしかありません。忖度という言葉が流行るくらいですから、コミュニティには常に何かしら演者としてのストレスが潜んでいるのではないかと思います。
わたしも日本で生まれて日本で育ったので、大学という新しいコミュニティの中で「ちゃんとしてないと居場所がない」という潜在的な強迫観念があり、どこかビクビクしていました。ですが大学のサンガで問題が起こっても、はっきり真正面から意見は言われますが、過剰な責任追求や制裁はありません。最終的には誰もが受け入れられ、許されていました。その様子を見て、初めは正義感を振りかざしたいような抵抗欲求がありましたが、次第にそれが常に正しい方法ではないということを理解していきました。だから失敗しても居場所がなくなることはないのです。
前回でお話ししたように、意見の衝突や問題が起こっても、それを個人のアイデンティティと癒着させる習慣がないのがサンガの特徴です。「あの人が悪い」のではなく「あの状態が悪い」と考えます。もっと仏教的な表現にすると「あの縁起が悪い」ということです。わたし自身もその思考回路に馴染んでから、生きることが随分と楽になりました。そして他人を批判する気持ちも減りました(ゼロではないですけれどね)。世界各地の仏教伝統が一列にそろうのがマハチュラ大