アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「努力って何?」という質問に、スマナサーラ長老が答えます。

[Q]

   「努力する」ってどういうことですか?

[A]

■結果が伴わなければ努力ではない

    仏教で「努力する」というのは「結果を出す」ということです。人生とは「どんな結果を出すか」です。だから誰でも努力はするべきです。
    ただやみくもにがむしゃらに何かをしても、結果が伴わなければそんなのは努力ではありません。逆に結果を出しているならば、別に遊んでいても良いのです。遊んでいても試験に合格すれば文句はありません。「苦しんで勉強しないとダメだ」という話はありません。結果を出せば良いんです。
    でも、やはりボーッとしているだけではうまくいくはずがありませんね。何かプロセスが必要です。試験に合格したいならそのために何かしなくてはいけない。それが努力です。

《そうすると、結果を出せる方法を知らないとダメだから、なかなか難しいですね。》

    多くの人が頑張っても、皆が成功するわけではないのはそういうわけです。結果を出す方法を知っている人がいて、懇切丁寧に教えてあげても、本人が真剣に聞かなかったり、理解できなかったりするとどうしようもありません。努力だけはその本人にしかできないんです。

《結果は出なくても、一生懸命に頑張ったならば、それもその人なりの努力だとは言えませんか?》

    世間的にはそれも努力なのかもしれませんが、結果を伴わないことをいくら頑張っても時間の無駄なのです。「よく努力しました、頑張りました」と褒められるのは結果を出した時なのです。口では「ダメだったけど、よく頑張りましたね」と言うこともありますが、やはり結果を出していないと本当には評価されません。

《逆に、努力しなくても結果が得られる場合もありますよね。》

■正しい努力は「苦労」と無関係

    それは、因果法則として成り立ちません。努力というのは原因です。原因無しに結果だけということはあり得ません。例えば、殆んど勉強せずに試験に合格した人は、遊んでいるように見えてもやはり努力しているのです。合格する能力を持っているということは原因があるということですからね。「必死で勉強したのにダメだった」と言う人は努力ではなく苦労していただけです。ちゃんとした原因を作っていなかったならば、それは努力としては加算されません。
    本人が苦労しているか楽をしているかは関係ありません。だいたい、正しく努力する人は、却って楽ができるものです。結果を出す方法を知っていて、自分がやるべきことをしていれば、休んだり遊んだりしても大丈夫なのですから。一番良いのは少ない努力でたくさんの結果を出すことでしょう?    それが正しい道で合理的です。がむしゃらに無駄な労力を費やすのは無知なのです。「努力とは何かの結果を出すことだ」とわかっている人は時間を有効に使うのです。

《自分がちゃんと努力しているのか不安になってきました。がんばっているつもりで無駄なことばかりしているようにも思えてきました。》

■努力の結果を実感できないのは問題

    目的に向かっている途中で「これでいいのだろうか?」という疑問が起こるならば、かなり問題です。そういう疑問が起こること自体が問題だと知った方がいいですね。ちゃんと頑張っていれば「これでいい」とわかるはずです。「本当にこれでいいのか?」と疑問に思うのは、今日一日の努力について疑問があるということでしょう?    ということは、今日の結果は得られていないということですね。問題だと言ったのはそういうわけです。
    例えば、英語が全くできない人が「英検に合格してやるぞ」と思ったとします。その人はABCから始めるかもしれません。でも、例え初歩的な単語をいくつか憶えただけでも、その分は上達したという実感が得られるのです。難しい問題集を選んだものの全くわからないから日本語訳だけ読んで、適当に選んで答えを出して解答を見て答え合わせをする……。そんなのは勉強でも何でもないでしょう?    当然、自分でも「これでいいのか?」という疑問が出てきます。英語ができないのに「英検を受けたい」と考えることは悪くはないのです。ただ、正しく計画を立てないといけません。自分のレベルから始めたならば、自分がやった分は納得がいっているし、気分も良いのです。もっと早く上達したければ勉強時間を増やしてスピードアップすればいいだけのことです
    結果というのはある日突然に現れるものではありません。毎日毎日、その日の結果が出るのです。だから途中経過において「これでいいのか」という疑問は因果法則では成り立たないのです。リンゴの種をまいたら、芽が出て、木が生長して、枝が出て……など、リンゴが実る前からそれなりの結果が出てくるのです。ある日突然にリンゴが実るわけではありません。

《目標に到達するためには日々の結果が必要だということですね。》

■日々の結果と最終目標は別に考える

    そうなのですが、もう一つ気をつけることがあります。今日の結果と最終目標は別に考えるということです。例えば、受験勉強は学校に入るためにするものですが、合格することばかりが頭にあって、そのための結果を出そう出そうとしたら、焦りが出てしまってうまくいきません。「努力というのは結果を出すことだ」と聞いて失敗するのは、自分が決めた目標に引っかかることです。
    悟りを目指す場合は厳密に厳しいのです。「悟ってやるぞ」と思ったら悟れません。「今、何をやるべきか」それを百点満点でやることです。目の前の事をちゃんとやらない人が悟れるはずはありません。今日やるべきことをちゃんとやって、まだ時間が残っているならば明日の分もやっておく。そうすると遊ぶ暇も出て来るし、余裕を持って進めます。最終目的は紙に書いてあるものに過ぎません。今やるべきことは目の前にあります。それを次々とこなしていくと最終的に目的に達するのです。それは不思議でも何でもない。すごく自然なことです。
    目の前にリンゴの種があるなら「実がなったらきっとおいしいだろうな、どんな皿で食べたらいいのだろう?」などと妄想するのではなく、まず種を土に植えるのです。土の状態や水はけ・日当たりなどに気を配るなど、今やるべきことをやっているとおのずと結果が出てきます。遠い将来の結果ばかり考える人は成功しません。    

《でも、やはり目標を定めることは必要ですよね?》

■「心を清らかにすること」に努力する

    まず努力ということを理解してから、何に努力すればいいかという選択の問題が出てくるのです。命は短いし、人生はリセットできません。今の瞬間にできることはたった一つ。だから何をやるべきかを選択して、それに向かってチャレンジするべきなのです。自分が何をやるか決めている人は落ち着いています。
    お釈迦様は「理想的な努力は、心の汚れを落とすことだ」とおっしゃっています。すべてのことは一時的で儚いのです。例え総理大臣になれたとしても数年で終わりでしょう。子供たちが憧れるプロスポーツ選手やダンサーも、本当に活躍できるのはせいぜい三〇歳ぐらいまでです。例えそういう夢のような職業に就いたとしても、それで「私の人生が成功した」と言うことはできないのです。世間的な地位や名誉は生きる目標にはなりません。
    心をきれいにすることはどんな人間にも必要です。心が清らかで無いならば、いくら能力があってもしょうがないのです。強盗や殺人犯などはいくら能力があっても誰にも必要とされません。だから俗世間の事よりも、心を清らかにすること、罪の無い人間になることを頑張ることこそすばらしいのです。俗世間のことは、生活のために何かそこそこのことを一つ選んで、それだけしっかりやればいいのです。
    自分の道を決めたら、他のことはきれいに捨てて、自分の道のためには今日何をするべきかというところで地道に前に進むべきです。そんなことは当たり前なのですが、人間には色々な欲があって、それをすぐに忘れがちです。「やっぱりあれもやりたいな、これもいいな」と考えてしまうのです。そうすると、頭が混乱状態になって目標に達することは難しくなります。
    日々励むべきなのは、心の悪を減らし、善を増やすことです。悪を完全に無くして善を完成することは理想的な目的です。「人は、目標に達するまで努力するものです」というのが、お釈迦様の言葉です。


■出典   『それならブッダにきいてみよう:ライフハック編』 

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