アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「死別の悲しみとの向き合い方」です。

[Q]

   
六処で感情・喜びを惹き起こして執着すると学びました。六処で悲しみが惹き起こされる、例えば、愛する家族と死別してしまうという場合、「肉体は滅びるものであるから、この私に起こっている悲しみは妄想である」というふうに観ていけばよいのでしょうか?
 

[A]


■その悲しみから何を学ぶか

    仏教的な見方は、そのとおりです。「何でも滅びていくのですから、これは誰の手にも負えるものではありません」と観察して、冷静にいることが智慧の世界なのです。

《なかなかそうは観られない場合は、しばらく悲しんでもいいのですか。》

    まあ、それは「仕方がない」ことです。でも、勉強して欲しいのはこういうことなのです。愛する人と死別しました。死んだというデータを、自分が眼で知っている、耳で知っている、知識では知っていますが、受け入れたくないデータです。そこで、怒りが起きるのです。苦・楽・不苦不楽の中で、苦という感覚が生まれています。「悲しい」という気持ちは、仏教で専門的に分析すると「怒り」です。残された人は、愛する人が死んだことに怒っているのです。怒りを悲しみで、泣くことで表現するのです。執着・煩悩がある人にとっては仕方がないことですから、そこはある程度までそのまま放っておいて、それから観察して、その感情から脱出しなければいけません。

■死別を嘆き悲しむのは「優しさ」ではない

    世間にある、「愛する人が死んで泣くのだから、この人は本当に優しい人間だ」という固定観念は、大変な間違いです。本当のところは、我々は「損した」から泣いているのです。子供が死んで泣く親も、ものすごく損したと思って泣いているのです。母親はこの子を育てて、一人前にしてあげて、いい教育を受けさせて、結婚させてあげて、立派な人間にしてやるぞ!    という遠大な計画を持っていたのです。あと、子供が走り回って遊ぶのを見ていると楽しくてしょうがない。「お母(父)さんのこと大好き」と言ってくれると愉快でたまらない。そんな子供が死んでしまったら、自分が想像出来ないぐらいの損をしたことになるのです。一億どころか、数字には換算できないくらいの大損です。それで、強烈に悲しむのです。強烈な悲しみとは、すなわち強烈な怒りです。
    殺されてしまった子供の部屋をそのまま置いておく親がいます。テレビなどでよく見かけますね。あれは優しさでも何でもありません。子供がいない状況を受け入れたくなくて、自分の心が現実を拒否しているのです。だから、生前のままにして十年でも置いておく。そうやって、怒りを持ち運ぶのです。当然それは、ものすごい執着の結果なのです。
    それで自己破壊に至ってしまうのです。子供が亡くなって損したばかりでなく、自分と家族の幸福も怒りで壊していくことになります。加害者が与えた悩みよりも多くの損害を、被害者は自分の怒りによって、何年も受け続ける羽目にもなるのです。それをよく憶えておいてください。誰かが死んで泣いたからといって、優しいということにはなりません。

■誰かが死んで「よかった」と思うこともある

    これって、すごく難しいことですよ。生命が死ぬのは、私だっていい気持ちにはなりません。時々、小さな子供たちが殺されたと、ニュースで聞くだけでいてもたってもいられない、「何故だ、まだ十年も生きていない子供を殺せるのか」という気持ちにはなります。しかし、すぐに「世にあることはそんなもので、悲しい、納得いかない出来事ばかりなのだ」と、観察モードに心を変えるのです。
    悲しみについては、そういうことをよく憶えておいてください。
    高齢の方々が施設に入って、認知症を発症して家族のことも忘れてしまうようになると、お世話するのも大変だし、亡くなっても悲しくありません。むしろほっとするのですね。何故かというと損していないからです。例えば、身内がガンになって、すでに治療不可能な状態で、その上認知症にもなったりしてもうお世話しきれない。そこで施設に入れれば、専門家たちが面倒を看てくれるだろうと自分を誤魔化すのです。実際はろくに看てはくれないのですけど。そのタイミングで亡くなれば、「ああ、よかった」という気分になるのです。当然、神妙な顔をして葬式はやりますよ。煩悩がある世界というのはそういうもので、仕方ないと言えば仕方がありませんね。



■出典      『それならブッダにきいてみよう:こころ編3」

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