【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「清濁併せ呑むべき?」です。
[Q]
仏教では、清くあることとか道徳をとても大切にされますが、悪い部分も必ずある訳で、自分のそれを大切にすることが、他人の悪い部分も認められるようになるんじゃないかと思うのです。その方が人間関係は上手く行くようになるんじゃないかとも思っています。「清濁併せ飲む」という言葉がありますが、そういうことも必要じゃないでしょうか?
[A]
■欠点は学んで無くさなくてはいけない
全て間違いです。清濁併せてしまうととんでもないことになるだけでしょう。ご飯と糞を合わせても食べられる? ということです。日本独特の思考かもしれません。少なくとも智慧を完成したお釈迦様の思考ではありません。
「私の悪いところ」というのは「私が人に迷惑を掛けているところ」です。それを大切にするというのは、どういうことなのでしょうか? 私は人に迷惑を掛けることで人間関係がうまくいくのだ、という屁理屈になってしまいます。誰にも何も言っていないけれど、ずっと嫌な思考をしている――それも周りに迷惑なのです。悪いことを考えていると顔つきも悪くなるし、機嫌も悪い。周囲の人が逃げ出したくなる雰囲気を醸し出してしまいます。
お釈迦様は俗世間については、与えられているもので満足しなさいとおっしゃっていますが、人格向上については、満足することなく成長し続けなさいと明確に区別しています。決して悪い所も大事にしなさいということにはなりません。自分の悪い所を大事にしてしまうと、一向に良くならないでしょう。仏教というのは欠点を見つけて、それを中心に学んで、学んで、無くすことなのです。
清掃担当者は町中でゴミだけを探しますが、別にゴミを大事にしている訳ではありません。見つけて処分するためです。美しい調度品などは視界に入らない。ゴミがあるのかないのかそれだけ。だから、弱点や欠点はこの掃除係の人の気分で見た方がよろしいのです。
なぜ道徳を大事にするのかと言うと、道徳とは「私はどのように生きるのか」という質問に対する答えなのです。
生きることは、まず考える、それからしゃべる、そして身体で行動する。この三つとも他人に影響を及ぼすのです。自分が一人で勝手にやっているだけでも、です。
例えば精神を病んでひきこもっている家族が一人いるとしますね。その人はずっと部屋から出ないで、ご飯を食べて、トイレに行って、寝る…それだけなので家族には何の迷惑もかけてないはずですが、その人が部屋に閉じこもって、考えている事によって親はクタクタに悩むのです。家中が暗くなります。家の明るさ、幸福、幸せといった全てが壊れていくのです。
人間は不完全なのですから、完全にできないことを言い訳にしないで、他の生命に迷惑をかけることがないよう頑張ってください。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 人間関係編2』
https://amzn.asia/d/5NdGIG2