島薗進(東京大学名誉教授)
ジョナサン・ワッツ(INEB理事)
日本における仏教と社会の関係、そして「エンゲージド・ブッディズム」とは何か。そもそもの定義や具体的な出来事、歴史を紐解いていただきながら全体像を知り輪郭を描き、その意義と現代的な課題を、エンゲージド・ブッディズムに詳しいお二人に伺いました。全8回の第3回。
第3回 仏教の社会参加の意味を考える
●お釈迦様の社会参加戦略
島薗 仏教はどういう意味でお釈迦様のときから社会参加(ソーシャリーエンゲージド)だったのか。イスラムは成立の時点から、宗教集団を作ることが、新しい社会全体を作ることと結びついていました。つまり、はじめからムハンマドが政治的な成功を収めたわけです。ユダヤ教の預言者もそれを目指していたと言えるかもしれません。イエス・キリストも、当初はそういうことを目指していて、“イエス・キリストは神の国をこの世に実現する”というふうに考えられていたのですが、それが失敗する。いわば挫折をして犠牲になったという見方もできます。その犠牲こそがキリストの救いだという逆説がそこに入っている。そこからユダヤ人を超えた信徒の集団化が始まってくるので、ローマ帝国の初期のキリスト教の集団を考えると、パウロの手紙などでも、世の終わりを待っているわけですが、そこに社会変革というようなことはあまり入っていません。そう考えるとキリスト教と仏教は、ともにある種の社会からの離脱の傾向を持っています。政治に対する一種の挫折、社会的な改善が望めないことに対する諦めの中で、内面的な充実感を求める。ということで、ニーチェもですがマルクス的な宗教への批判は現実の社会変革を断念してしまっていることへの批判でもあるわけです。
そういう捉え方に対して、ワッツさんが言っている見方は、「いやいやそうじゃなくて、初めから仏教は変革の面を持っているんだ」ということですよね。キリスト教も、そういうふうに捉える見方がかなりあると思うんですね。
ただここで重要なことは、キリスト教や仏教が典型的ですが、宗教はしばしば社会から離脱して内面的な自己充足や自己超越を求めます。そういう意味では、社会問題であるとか、人々が構成して共同生活をしている社会のあり方に対する関心が弱いという特徴を帯びがちです。これが一つ。この方向性では内面性を重視するために社会性が軽んじられるわけですね。で、そもそもブッダ自身もそうだったんじゃないの? と。つまり、政治家や王様としての役割を放棄して、個としての悟りを目指した。しかも梵天勧請に「もう社会のことは知りませんよ」みたいなくだりもあるぐらいだから、特に出家主義的な仏教は、社会的なものからの離脱というような要素を持っています。これはキリスト教と仏教に共通することで、近代のキリスト教徒から見ると、仏教は特にそういうふうに見えるのでしょう。
で、それに対して私が「それは違うんじゃないの」というのは、実は当初から、キリスト教も仏教も、個人の救いとともに、宗教の理念に沿って社会全体を再構成する活動を重んじるということが繰り返し起こってきていたと思うのです。ただし、大きな問題として、それを王様に委ねる時代が長かったのですね。そして仏教で言うと、そもそも上座部(テーラワーダ)仏教が内面性にこだわっていることへの反発として大乗仏教そのものが、むしろ在家との関わりを重んじていますよね。社会の苦しみのあるところに、むしろ積極的に関わっていこうという動きです。そういうことがブッダの中にあり、しかし原始仏教からテーラワーダ仏教に向かう中で出家中心の仏教がそういう社会性を失っていくのではないか。そのことに対する一つの反動として、菩薩の観念があったと。法華経にそういうニュアンスは非常によく出ていると思うんですね。
ただ一方で、今度は浄土教みたいなものを考えると、この世で何かを求めるよりは死後の救いを求めるということで、これも一種の内面志向です。そういう揺れが仏教にはあって、日本の仏教史の中でも、社会の苦しみに取り組もうとする動きは繰り返し起こってきていて、行基などがその最初期に位置づけられます。行基を中心に空海もため池を作ったり、そういう志向を持っていたということを考えると、社会参加仏教って昔からあったのではないかというふうに見えるのです。
ワッツ うんうん、もちろん。