「エンゲージドブッディズム」とは、社会問題に仏教的視点から積極的に関わる運動を指し、「社会参画仏教」「行動する仏教」とも称されます。
本企画では、ポーランド出身の曹洞宗僧侶・シュプナル法純師と、長年エンゲージドブッディズムを研究してきた浄土真宗本願寺派超勝寺住職・大來尚順師をお迎えし、仏教は社会活動とどのように関わるべきなのかを掘り下げます。エンゲージドブッディズムの未来を考える対話、全6回連載の第3回をお届けします。
第3回 仏道を歩む「私」としてのエンゲージ
●釈尊の視座に思いを馳せる
大來 エンゲージドブッディズムの面白いところは、人のため、世のためということもあるのかもしれませんけども、僧侶だけではなくて一般の方と一緒に活動していくところに良さがあるのだろうと思うんです。逆に言うと、最低限のルールとして「みんなが菩薩道を目指しましょう」という志がないと、「私はただ単にいい人になりたい」というだけでは、おそらく活動が間違った方向に進んでしまうと思うんですよね。
『ダンマパダ』(法句経)の中の、お釈迦様が「仏教とは」という下りに「悪いことをせずに良いことをすることだ」というふうな一句があると思います。その理由が面白いんですよね。「後悔しなくて済むから」。要は、「良いことをしよう」というふうにものごとを動かすのではなくて、自分が後悔しなくても済むような行動をしていくことによって、驕(おご)りというものがかき消されるのではないかと。「お釈迦様の考え方ってすごいなあ」と、心から感心しました。ただ、言うは易し、行うは難しですよね。しかし、だからと言って諦めるのではなくて、やはり自他一如という理解の基、自分に施すことも、他人に施すことも結局、回り回って返ってくるので、一緒なんだという心を大事にして日々精進していくことが仏道なんだと思います。
法純 そうですね。ただ、もう一つの問題は、社会の苦しみや貧困、さまざまな問題が確かに存在する。電車に乗っているとき、周りの人の顔を見ますと、苦しんでいる人がたくさんいるんだな、といつも思います。
大來 いるでしょうね。言わないだけで、みなさんいろいろな不安、悲しみ、悩みを抱えておられますよね。
法純 苦しみはその人の表情に現れているんですよね。そのときに、あの苦しみをどうやって救うのだろうか、と。私としては、苦しんでいるその人に対して、どうすればよいのか、と。自分さえ救うことができないのに。願い事として「衆生無辺誓願度」と胸を張って唱えますけど、その「衆生」とは誰だろう、と。概念として「衆生」を考えると、目の当たりの妻という衆生、子どもという衆生のことを見逃してしまう場合も多いでしょう。
大來 とても大事なことですよね。
法純 それは私が自分の悩み(問題点)として抱えるべきことです。「衆生をどうやって度(ど)すのか」と。ちなみに、エンゲージドブッディズムというのは、先ほどおっしゃったように、僧だけではなく、仏教の実践者として様々な立場の人が関わるべきことですね。
大來 在家の皆さんも一緒に。
法純 つまり誰でも。
大來 そういうことですね。仏道を歩む仲間という中でね。
法純 はい。ですから、社会の苦しみを自己の問題として見て、あまり区別しないことが大切だと思います。苦しみという根本的な問いに対して、どうすればいいのか、というところでしょうね。釈尊も朝の托鉢で歩いていた街を見ていたに違いない。今でもネパールの道路では死体が多いそうですが、釈尊の時代も同じような光景を目にしていたのでしょう。托鉢に出て帰ってきて、鉄鉢一杯分をいただき、静かに樹の下で瞑想していた。そのとき、彼は何を考えていたのでしょうか。良寛さんの謳ったように「黒染めわが衣手のゆたならば貧しき人をおほはましものを」。悲惨な現状を目の当たりにし、人間として心に残ることがあったでしょう。おそらく私たちと同じように、「私としては、彼らに何をすればいいのか」と悩んでいたに相違ない。釈尊はもちろん社会の中で生き、その後出家した人ですが、その社会に対して、あるいは自分が社会人として何をすればいいのか、と考えていたはずです。
大來 常にアンテナを張って、何が問題なのか見極めていくことの重要性ですね。