島田 啓介(翻訳家・「ゆとり家」主催・プラムヴィレッジOIメンバー(正会員))


島田啓介氏が「現代人にもっとも必要な偈」として勧める「バッデーカラッタ・スッタ(Bhaddekaratta-sutta、一夜賢者経)」を、自身が翻訳を手掛けたティク・ナット・ハン師の解説書『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』をベースに解説していただきました。「バッデーカラッタ・スッタ」の魅力と、それを踏まえた現代人が大切にしたい生き方についての論考を、全4回でお届けします。

第2回    「いのち」「ひとり」の理解と「バッデーカラッタ・スッタ(一夜賢者経)」


■いのちとは何か?

    『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』の英語の原題は “Our Appointment with Life”(いのちと出会うところ)であり、帯にはタイの言葉で「いのちと出会う場所は「今ここ」です。出会うところ、それはあなたのいるここ以外にありません」とある。この「いのち Life」は、偈頌にはもともとない(他の日本語訳では「それ」とか「そこ」と訳されている)部分である。

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    タイがよく使用する“Life”には、「いのち」「生命」「人生」「生活」「人間」「活力」「本物」など多様な意味があり、つねづね翻訳に苦労する。
    この部分をパーリ語原文で見てみよう。
    "Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati” 字義どおりには、「現存する事物を、その時、その場で、深く見つめる」(ティク・ナット・ハン訳では「いのちを深くありのままに見つめる」)であって、この事物dhamma(有為法=因縁の上に存立する無常なるもの)を「いのち」と名指しているようだ。
    Lifeという英語の多様な意味を抱えもつ、この世のあらゆる現象に流されず(経典では「現在に押し流されず」とある)、深く観察するということになるだろう。その結果、「不動自在(Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ)」の状態を得る(本書pp.85-86)。本書帯の「いのちと出会うところ」はまさに今ここ、つまり世界dhammaと自己が分かたれずに存在する(無我anattā)のは、この瞬間しかないことを表している。
    ティク・ナット・ハンの「いのち」という言葉をこのようにとらえると「ひとりで生きる」という意味に接近していける気がする。
    そのうえで、経典本文に入っていきたいと思う。

■説法がされた当時の僧院の様子

『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』では「一夜賢者経」の前に、別ヴァージョンのひとつ「長老経(テーラナーモ・スッタ)」が置かれている。非常に短い経典であるが、一夜賢者経にはない物語を中心にしている。それはタイトルにある「テーラ」という名の僧であり、彼を「ひとりではない」例として挙げているのだ。それが「ひとりで生きるとは何か?」を逆に明示する効果を作り出している。
    現代の祇園精舎あと(サヘート)には建物の礎石が残っているが、それらはすべて後世に建てられたものであることがわかっている。五世紀に法顕が訪れたときには煉瓦造りの建物群が残っていたが、それ以前には木造の家屋があったと告げられたという。七世紀に玄奘三蔵が来たときには廃墟化していた。それ以降再興され、現在は広い公園になっている。
    ブッダはこの場所、祇園精舎を好まれ、悟りを開いてから入滅までの45年間のうち、20回前後の雨安居(リトリート)を過ごしたと言われている。
    発掘調査が継続されているが、法話がされた当時、シュラヴァスティの祇園精舎の僧院の様子は正確にはわかっていない。しかし経典からタイが物語を編んだ「小説ブッダ」(春秋社    池田久代訳)の中には、当時の貴重な生活の様子が描かれている。
    その最盛期には500人もの僧侶が起居していたという。大林の中の僧院には、二階建ての屋根のある講堂があり、沙羅の森の各所に小さな建物が散在する。ブッダの小屋は茅葺だったと描写されている。また瞑想時にはそれぞれが森の中の空き地や木の根方に座る。大勢の参集は屋外の広場で行われたらしい。

■テーラの物語と「ひとりで生きる」ことの真意

    当時のそのような光景を思い起こしながら、本文に目を通していこう。
    多くの経典の出だしは「如是我聞(私はこのように聞いた)」という言葉で始まる。ブッダが僧たちを呼び集め、僧たちは「そろっております」と応える。それによって経典を読む者も、耳を澄ますことができる。まず長老経を見てみよう。
    数百人もの僧侶は、散在しながらもつねに集まれる範囲に住処を構え、すぐに駆け付けられる体制でいた。その中で、ひとりで行動し、まったくサンガに加わらないテーラという名の僧がいた。
    ブッダに尋ねられた彼は、「ひとりで生きる」という教えを額面通りに解釈し、「ひとりで暮らし、ひとりで托鉢をして、ひとりで瞑想する」孤独にとどまる修行を続けていたと答える。それに対してブッダが教えの真意を言い含めるのが、長老経だ。
    物理的にひとりでいるよりさらにすばらしき道がある。それは、「過去はなく、未来はまだ来ないと知る。今このときに欲から解放されてとどまる」生き方だ。ここでまた「Life いのち」という言葉が出てくる。短い偈頌を引用しよう。
    「いのちを深く見つめれば    そのあるがままの真実を曇りなく知ることができる    何ものにもとらわれずに    あらゆる貪欲を取り除くことができる    それにより、人生は安らぎと喜びに満たされる    これこそ、真にひとりで生きるということだ」
    そしてテーラは歓喜して実践に入ったとある。
    このテーラの逸話は、現代の私たちにもそっくりあてはまるだろう。「ひとりのほうが邪魔されずに瞑想がうまくできる」とは、外的な刺激をカットすれば集中しやすくなるということだ。この「ひとりでいる」ことを、経典では「エカビハリヤ(ひとりで住むこと)」と言っているが、それは関係性を断つような「ひとり」とはまったく違うとブッダは言う。
    「ひとりで座り、ひとりで休む    ひとりでたゆむことなく進む    苦しみの根源を深く理解するものは    孤独にとどまりながらも    大いなる安らぎをほしいままにする」(ダンマパダより)
    エカビハリヤという名の僧をたたえたブッダの偈頌である。彼はそのありかたによって修行仲間から尊敬されていた。しかし前記のテーラはそうではなかった。両者の違いは何だったろうか?    テーラは物理的な距離ばかりを重んじ、精神的に単独者であることを重んじたわけではなかった。
    ブッダは、ひとりではない=他者とともにいることを、エカビハリヤに対して「サドゥーティヤビハーリ」と呼び、たとえひとりでいても自分を縛る枷があり、その枷こそ「ほかの者」であると言っている。これは何を意味しているのだろうか?
    他の個所では、その枷が執着、心の形成物(行)、過去や未来や今の雑念のとらわれだと指摘されている。つまり絶え間ない思考の流れの中に巻き込まれていれば、人はひとりになれないということだ。

■俳句を作る人の「ひとりで生きる」こと

    わかりやすくするために、俳句を作る人のことを例に挙げてみたい。「吟行」という言葉がある。句作のために名所や旧跡を実際に訪ねることだ。グループで行う場合には、待ち合わせて同じ範囲を歩き回り、例えば三句ずつなど決めて時間内に詠む。それを同日の、または後日の句会でシェアして感想などを言い合うのである。
    俳句を詠む場合には、たとえ数人で行こうとも、行った先が観光地で騒がしくても、内的な静寂が必要だ。それが「最初のひらめき」を左右するからだ。環境の静かな場ならその静寂が保証されるというわけではない。また、閑静な場が句作に最適というわけではない。人が集まる公園などで、人々が楽しむ様子が俳句の材料になったりするからだ。
    私も父に倣って3年ほど前から句作を始めたが、句の最初の一言は「ひらめき」によるところが多い。そのひらめきに誘われて言葉が出てくることもあれば、かなり思考を重ねて調べものをした挙句に仕上がることもある。
    問題は最初の「ひらめき」だ。それは心の中に空白がなければ降り立ってこない。思考によって出してきたものは俳句になりにくいし、自分でもつまらない。ひらめきのための「空白(スペース)」を心の中に作ること、それがまず句作の最初の条件になる。思考がぎっしり詰まった頭脳には成しえない業である。
    吟行先でまず対象を見つけ、観察するために散り散りになる。仲の良いふたりが「この出だしはどう思う?    君はいくつできたのか?」などと会話しながら句作をしても、良いものはできないことはわかるだろう。俳句は(俳句に限らずあらゆる創作は)基本的にひとりの作業だ。
    ひとりにならなければ、自由な時間と空間は確保されない。そうしてひとりになって、題材を探すのだ。ある人は景色を眺めぼんやりとする。ある人は目をつぶって耳を澄ます、または風の匂いをかぐ。またひたすら逍遥する人もいる。感情の波を味わう人、何かの思いに浸る人もいよう(しかし思考ではなく)。
    そうしながら、彼らは心身に生じたスペースに浮かぶ言葉の雲のひと固まりをつかんでくるのだ。物理的にひとりになっても、心の中で「ほかの仲間はもうできているのだろうか?    このあと何をしようか?    この句は評価されるだろうか?    もう時間がない」などとばかり考えているなら、スペースは思考で埋め尽くされ、ひらめきの雲をつかんで来るどころではなくなる。言葉を選んでもそれは思考の言葉であり、勢い結果は現実の説明文のようになるだろう。
    これが、執着、心の形成物(行)、過去や未来や今の雑念といった心の枷である。ひとりでいるときにも、そうして湧いてくる雑念は、じつに他者(社会)から与えられ、外側から侵入してくるものであり(もし外、内という区分けをするなら)、その雑念のさなかで人は「思考という多くの他者とともに」いる。これが「心のおしゃべりが続く」状態だ。
    よく「私は私自身で自由に考えている」ということがあるが、思考に純粋な自由というものはない。誰かしらがすでに考えた価値観をなぞっているのだ。思考によって、私たちは価値伝達の永続的な流れの中にいるといってもいいだろう。自分を伝達の器と考えれば悪いことではない。
    しかし俳句のひらめきは、それと違う場からもたらされる。思考の隙間のスペースからだ。それには物理的なひとりに加えて、内的なひとりが必要である。衆人の中でもひとりになれること、それが俳句創作の秘訣と言えるだろう。
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島田氏が暮らす「ゆとり家」の風景(撮影=島田啓介)
■一夜賢者の偈頌とブッダによる詳解

    経典そのものはきわめて短いが、その中心をなす偈頌はほかの多くのヴァージョンでも引用されている中心的な教えである。まずブッダは、参集した弟子たちを前に「ひとりで生きるより良き道」について説くことを宣言する。偈頌の部分だけをここに抜き出し、そのあと分解して見ていくことにしよう(pp.20-21)。

    過去を追いかけず
    未来に心を奪われるな
    過去はすでになく
    未来はまだ来ていない
    まさに今ここにおいて
    いのちを深くありのままに見つめれば
    その修行者の心は、不動そして自在にとどまる
    今日を励みつつ生きること
    明日を待つのでは遅すぎる
    死は突然にやって来る
    それを避ける手立てはない
    賢者は言う
    昼も夜もマインドフルネスにとどまる者こそ
  『ひとりで生きるより良き道を知る者』であると


    ブッダは偈文中の過去、未来、現在における心のあり方について、それぞれ五蘊(ごうん)(色=体、受=感受、想=認知、行=心の形成、識=意識)に照らしてわかりやすく説明を加えている。

●過去
「過去を追いかけることと、追いかけないことはどう違うのか?」。それら五蘊について、過去を「考えること」はあっても「執着しないこと」だという。
    過去を思わないことは不可能だし、そうする必要もない。人類の歴史は、過去を参照しつつ積み上げられてきた。ただ、参照することと執着することは違う。私たちの生活では、参照して行動に移すよりも、こだわって鬱滞することにより多くのエネルギーを使っている。例えば、「ひとりで生きる」教えを実践するより、それについてあれこれ思い巡らすほうが得意なのだ。

●未来
「未来に心を奪われることと、奪われないことはどう違うのか?」。五蘊について、この先どうなるだろうかなど思い煩うときには心を奪われているし、未来のことを考えても夢想に没入しないなら、心を奪われてはいないという。
    未来を考えなければ計画することはできないし、多くの行動は不可能になる。しかし考えても、先のことで不安を作り出さないなら、未来は苦しみのもとにはならないだろう。ここでも、過去や未来を思うこと自体ではなく、それによって「心ここにあらず」になることを戒めているのだ。

●現在
    さらに続けてブッダは、「現在に押し流される」という表現を使っている。目前の三宝によって学ぶことをしないで、五蘊が自分であると思い込み、それにしがみつこうとするとき、自分の滅びを恐れ、執着を強めるだろう。それを現象に押し流される(無常なる俗世の流れに飲まれる)と表現している。今すべきことを仏法の実践に置き、自分に執着しないこと。五蘊と自分を同一視しないよう戒めている。

    この部分は、死の恐れとも深くかかわりがあるだろう。p.26からの経典解説でタイは、「自分」への正しい理解を、仏法(真理の法則の教え)によって説いている。そこでは、ガンを宣告された人の恐れを例にとっている。五蘊と自分を同一視し、自分への執着が強ければ、当然死の恐れも強くなる。
    まず死は万人にいずれ訪れるものと理解する。早くても遅くても、残された時間が同じであれば、いかに生きるべきかが浮き彫りになってくるだろう。現代社会の成長モデルは、人間にも永遠に生きることを要求するかのように死を遠ざける方向にある。その流れの中で、死を受け入れることは極度に困難だ。だからこそ、仏法を学ぶ意味がある。それは善悪の問題ではなく、自然の「法則」なのだから。

(つづく)


第1回   「 バッデーカラッタ・スッタ(一夜賢者経)」の基本的理解
第3回    過去・未来・現在の枷のほどき方と「ひとりでいる」こと