アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「ご縁」についてです。

[Q]

    私は今日、長老のお話をお聞きしようと思って、縁があって講演会に来ました。今日ここに来ようと思っていても、別な縁があって来られない方もおられます。今日たまたま通りすがりで、縁があってこの場におられる方もいるかもしれません。そうすると、頭で考えて何かを「する・しない」というよりも、縁があってタイミングが合うと、必ず出会えることができるような気がしているのですが、そのような縁とは、どこから来るものなのでしょうか?

[A]

■神秘的に考えない

    「ご縁」という言葉について、あまり神秘的にならず、客観的に考えた方がいいのです。では、なぜ神秘的な気持ちになるのかというと、所縁・諸々の縁のすべてについて、私たちはわかっていないからですね。全ての縁がわかったらならば、「ご縁」は神秘的なものではなくなるのです
    例えば、何も知らずに今日この場所にいた人が、偶然に看板を見て、この講演会にちょっと寄ってみようと思って、仏教の話を聞くことになったとします。でも「これは不思議な縁だな」とか、そういうふうに神秘的に考える必要は無いのです。

■大事なのは自分の意志

    さまざまな縁の中で、大事なのは自分の「意志」です。「意志」は自分に管理できる縁なのです。例えば「この日に講演会に行こう」という意志を作りました。そこで、その日が近づいてくると、友達が「今日は食事をする約束だから行きましょう」と電話をかけてきた。そうすると意志が揺らいでしまうのですね。それで「やっぱり講演会はやめにしよう」と意志を変えるのです。意志が変わってしまったのだから講演会に行くことはできません。
    そこで判断する縁が「意志」なのです。例えば意志があって講演会に行こうとしたけれど途中で転んで足に怪我をしてしまった。そうなると手当てをしなくてはいけないし、怪我の具合も心配だし、講演会に行くのを止めました……という場合は意志が変わったのです。
    その人が「この程度の怪我は大したことない」「すぐに手当てをしなくても死ぬわけじゃない」「とりあえず絆創膏を貼って、講演会が終わってから病院に行く」と決めたら、その意志によってこの場に来ることができます。

■意志が決定権を握る

    そういうふうに、大体は「意志」が決定権を持っているのです。もちろん、決定権を持っていても、他の縁で意志が変わらざるを得ない場合もあります。例えば、こちらに来る途中に事故に遭って立つこともできないと。そうなってくると、いくら講演会に行きたくても状況が変わって、講演会場ではなく病院に行くことになるのです。その場合は、まだ「講演会に行きたい」という意志は変わっていませんが周りの縁が変わってしまったのです。それで自分の意思が通じなくなってしまったのです。「縁」というのはそういう性質のものです。決して神秘的に考えないでください。


■出典     『それならブッダにきいてみよう:人間関係編』  

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