川本佳苗(仏教研究者、日本学術振興会特別研究員PD)

気鋭の仏教学者、川本佳苗さんの仏教エッセイ「ぶぶ漬けどうどすか?」の「WEBサンガジャパン」での全編再録シリーズ、とうとう連載最終回です。川本さんの、ほぼほぼほぼ別人格(当社比)のスナンダ節の魅力に沼っていただけましたでしょうか。沼った方はどうぞ4月からの新連載をどうぞお楽しみにしてください。皆様からの質問を募集しています。オンラインサンガにログインいただき、メッセージ欄に書き込んでください。フル会員は1か月5,000円、ライト会員は2500円。ライトでもすべての記事が読み放題ですので、くどいようですがどうぞこの機会にご入会いただけると幸いです。質問お待ちしています。ガールズスナンダダンマトーク、テーラワーダ仏教の世界にようこそ!
※リンクなどは当時のものです。一部リンク切れになっていますが、ご了承ください。2025年2月現在、編集部で確認して切れているものは(編集部注:リンク切れです。m(__)m)を付しています。

第11回    質問コーナー改め「スナンダに聞いとくれやす~」──お題は「仏教とベジタリアン生活(菜食主義)」


    こんにちは!    法名スナンダこと川本佳苗です。うう、そろそろ楽しい夏休みが終わりますね。大学は秋からもオンラインなのかなあ……。

     私の近況ですが、ついにサイゼリヤデビューしました!    そう、恥ずかしながらわたくしこれまで「サイゼでご飯食べたことない歴=年齢」だったんです。後輩から「サイゼリヤ行ったことないなんてどんな田舎で暮らしてたんですか?」って言われたんですけど、むっ、スナ子京都市中京区生まれどすえ!    だって高校時代も友達とご飯食べるなら他のお店があったし、打ち合せでサクッとサイゼのドリンクバーだけなら使ったことならあったんですけど……。

    サイゼリヤ1000円ガチャでバイトの業務を組んだり、ネット画像で間違い探しを楽しんだりしてずっと隠れサイゼファンだった私。でも体験に勝るものなしですね!    初めて食べるミラノ風ドリアおいしかった……。楽しかったのでまた行きたいです。

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念願のサイゼリヤで記念撮影のスナンダ
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メニューを選ぶトキメキ☆の瞬間
 

■スナンダに聞いとくれやす~


質問:肉食は間接的な殺生にならないのか?


    今回の質問は、東京にお住まいのTさんからです。

    最近、お肉やお魚が(特にお肉)食べられなくなってしまって、全く厳密ではないのだけれど、若干ヴィーガンのような食生活を送ってます。

    で、仏教はどうかなと思ってちょっと調べてみたのだけれど別に仏教は肉食を禁止してるわけではないじゃないですか。で、殺生はNGになっています。蚊やゴキやネズミも。これも分かります。ただ、釈然としないのが、お坊さんは托鉢文化なんで、人から頂いたものは食べるじゃないですか。それが牛や肉だったとしても。

    でも殺生はNG。しかし……!    殺生はNGだったとしても、肉を食べることは、間接的に何かを殺してることにならないの、かな?と。

    例えば、児童ポルノ。子供を犠牲にして商売にしてても、それはそーゆービデオを消費する「客」がいるからで。たとえ客が直接手を下してなくても、消費するだけで犯罪に手を貸してるのではないかと。

    なんだか比較していいことが分からないけど、つまり間接的に関与してるならそれは、自分も加担してるのと同じなのてはないか、と。

    となると、肉食はokだけと殺生はNGって、凄い矛盾だなーって思ったのです。

    決してお肉食べる人を非難するつもりは無いし、私もたまに食べるのですけど、仏教的にそのあたりどう解釈してるのかちょっと気になりまして……。


    うん、面白い質問ですね!こういう殺生に関する仏教倫理は、私の専門分野です。

    ただ、私が答えられる立場は、パーリ語の聖典に残る律と、東南アジアで信仰される上座部仏教の考え方です。この立場を前提として、回答いたします。その上で、この質問が指摘なさっている問題点を1) 殺生、2)肉食、3)菜食の容認の3点に分けましょう。

1.仏教と殺生



    ごぞんじのとおり、殺生を控えることは仏教徒なら守るべき「五戒」の第一番目ですね。かつ「それやったら悪業をつくるで~!」と言われる十種類の行為である「十不善業道」の一つでもあります。さらに、出家者の守る律においては、殺生でも特に殺人は最重罪の違反にあたり、サンガ追放つまり僧籍剥奪の罰を受けます。

    仏典には、もうわんさか記述が見つかります。『ダンマパダ』と『スッタニパータ』にもブッダは「(生きものを)殺してはいけない。他人に殺させてはいけない」とおっしゃっていますし、おなじみの『慈経』(メッタ・スッタ)でも説かれていますよね。

    ここで、『ダンマパダ』から二節、引用しましょう。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(中村元、『ブッダの真理のことば』岩波、1978)


    誰だって殴られたりして死ぬのイヤだよね、自分の命が可愛いよね、あなただってそうでしょ?だからわが身と比べて他人だけ殺していいなんて考えないでね、っていうのがこの詩文の主旨ですよね。

    では、仏教における「殺生」ってどんな行為でしょう?    仏教の言う「生きもの」(pāṇaパーナ)は直訳すると「呼吸するもの」で、もっと突き詰めると「命根」(みょうこん)をもつものです。「命根」とは、生命が生きようと働きを行っているところなんですけど、人間なら心臓の近くにあるといわれています。パオ瞑想法では、禅定に入る前にこの命根を観察しますので、命根を見たかったらパオ瞑想合宿にいらしてください!

    じゃあ仏教の言う「殺生」ってなあに?    というと、殺害の行為は次の五つの条件がそろってはじめて完成されます。

(1) 対象が「生きもの」(呼吸するもの、命根をもつもの)であること、
(2) 自分が対象を「生きもの」として認識すること、
(3) 対象である生き物を「殺したい」という意志をもつこと、
(4) 対象を攻撃し、
(5) その結果、対象の命根が断ち切られること。

    五つの条件が全てそろわなければば殺生となりませんので、たとえば自然死した動物の肉や、殺すつもりはなかったけどうっかり投げた石が当たって死んでしまった動物の肉を食べるなら、Tさんの考える「殺生はNGだけど肉食はOKの矛盾」問題をクリアできます。

 2.仏教と肉食

     出家者、托鉢に出て鉢の中に入れてもらったものは食べないといけません。だから「わたし豚肉はちょっと」とお肉を拒否したりできません。でも、どんなお肉でも食べていいわけではありませんでした。

    まず、律上では10種類のお肉は禁止されています。人間(当たり前か)、象・馬(当時は高級な乗り物)、犬・ヘビ(卑しいとみなされていた)、ライオン・トラ・豹・熊・ハイエナ(近寄ると危険だとみなされていた)のことです。

    さらに、3種類の状況を避ける「三種の浄肉」が説かれています。在家が施食するための①動物が殺されているところを見た場合、②見てはいないけど殺される音を聞いた場合、③見ても聞いてもいないけど、動物が殺されたことを察することができる場合(たとえば、在家者が僧侶の目の前でニワトリを別室に連れて行って、数時間後に肉として運ばれてくるなど)の一つでも該当した状況で出された肉ならば、出家者は口にすることができません。

    現代のミャンマーでも、律に厳しい僧院や在家者が、先ほど引用した「他人にも殺させてはならない」、つまり意図的に殺生した肉を用意することを避ける場合があります。たとえば、お布施する食事のため事前に肉屋で肉3kgを予約すると、殺生する肉を指定したことになってしまうからです。

    ちなみに元来、東南アジアでは牛肉を食べる伝統はありませんでした。牛は「お母さん」なので大切にされています。これは仏教というより、それ以前のヒンドゥー文化が由来していると思います。

    まあ、そんなわけで、出家者だと殺生そのものにあまり縁のない生活をしています。在家者に関しては、確かに漁師や狩人といった職業は奨励されていません。そういう罪悪感は、チエニイさんの短編小説『漁師』にも表現されています。大同生命の「アジアの現代文芸の翻訳出版」のサイトで翻訳を無料で読めますよ。誰かがそういう仕事をしなければいけないし、そういう人たちもお寺をお布施したりして仏教を信仰していることが分かります。
http://www.daido-life-fd.or.jp/business/publication/publish/myanmar/myanmar6.html

3.菜食は殺生か?

    2500年も前ですから、ブッダの時代では、植物は「生きもの」とみなされていませんでしたので、植物を引っこ抜いても殺生にはなりませんでした。ジャイナ教も同じです。

    でもね、植物も、先ほど引用した「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。」の意識をもっていることが最近の研究では明らかになっています。長い歴史において、動けない植物がどうやったら動物に食べられないかという攻防を繰り返したことは、周知の事実ですよね。たとえば種実類のほとんどはアクなどの有毒性が強く、生で食べることは危険です。いちど虫などの食害にあった植物が、そういった有毒成分を増やすことも実験で分かっています。これらは全て、植物の「食べられてたまるか」という防衛策です。

    植物にもコミュニケーション能力があることは以前から研究されていましたが、最近では、植物が敵の音を聞き分けていることも分かっています。アブラナ科のシロイヌナズナは、モンシロチョウの幼虫が葉を食べるときの振動と同じ音を聞かせると、辛味成分の分泌を増量するそうです。これも、りっぱな防御反応なんです。

【参照文献】
①「植物は虫の咀嚼音を“聞いて”いる?」『ナショナルジオグラフィック』2014年07月10日
(https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9462/)
②株式会社光響  緒方.「植物は自分が齧られる音を聞いている。レーザーで振動を計測、害虫を判別して防御行動をとっていた」Optinews. 2018年5月18日
(https://optinews.info/2018/05/18/laser-vibration/)



■植物の意思にヴィーガンも涙目
 
    植物だって「食べられたくないよー!」って意思をもっています。それでも食べるの?    仏教徒もジャイナ教徒もベジタリアンもヴィーガンもみんな涙目やん……。

    ところでヴィーガンは、食べる目的以外のあらゆる状況において決して殺生しないんでしょうか?    ゴキブリや蚊を殺さないのでしょうか?    中絶にも反対ですか?ひょっとしてコロナウィルスも殺したくない?

    ベジタリアンやヴィーガンだって、殺生の罪から逃れているわけではありません。動物だろうと植物だろうと、食べることは命をいただくことだと自覚していただきたいです。食べること以外にも、人類は生きるためにさまざまな命を殺したり傷つけたりしながら生を営んでいます。

    その上で、何のために食べるかというと、われわれ仏教徒なら「食の観察」を肝に銘じましょう。

    私はこの食事を、楽しみながら、夢中になりながら、綺麗な体になりたいと思いながら食べるのではありません。
    身体を維持するために、体に栄養を与えるために、ケガ・病気にならないために、清らかな修行生活を続けるために、食します。
    そうすることによって、私は飢えという古い感情を無くし、過食という新しい感情も生みません。
    非難されることなく、安楽のうちに生きるでしょう。


    この「食の観察」は、テーラワーダ仏教寺院では、食事をいただく前に必ず唱える経文です。私も毎日読経していましたから、もう暗誦できますよ!

    ちなみに私自身は、外食以外では肉魚を食べないようにしていて、お家でゆる~いベジタリアン生活を続けていました。だったのですが、ボクシングを始めてからは、たんぱく質が足りなくて家でも肉魚を週1回は食べています。あと卵の消費量がハンパないです。ロッキーみたいに生卵5コ一気飲みはしませんけど!

    ありきたりな結論になりますけど、なるべく殺生(肉食)を控えつつ、植物を含めあらゆる命に対して「いただいている」という感謝と慈悲を忘れずに食べることが大切かなと思います。

    児童ポルノのたとえに関しては、出家者は性欲も大きな禁止なので、ちょっと該当しないかなと思います。

    はい、今回はこんなところでおしまいです。

    他にも、これまでの連載についての質問や、私に質問したいこと、ミャンマー仏教で知りたいこと、連載で取り上げてほしいこと、感想などがございましたら、メールアドレス[info@samgha.co.jp]宛に件名「ぶぶ漬け」と書いて送ってくださいね!
(編集部注:上記メールアドレスは現在使われていません。2025年4月開始の新連載のための質問をオンラインサンガで募集中です! 記事の末尾をご覧ください)

    慈悲をこめて、

スナンダこと川本佳苗



第10回    質問コーナー「仏教的に許容される怒りはあるの?」



【編集部より】
2025年4月から新連載「(帰ってきた)ぶぶ漬けどうどすか?」(仮題)が始まります!
オンラインサンガ会員の皆さんから川本佳苗先生への質問を募集します。適宜、連載の中で取り上げさせていただきます。
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