アルボムッレ・スマナサーラ  

新型コロナウイルスの出現による様々な困難に、2600年前から続く仏教は、どのような思考で向き合うのか?    私たちがこれからの時代を幸福に生きるために必要なお釈迦様の智慧をスマナサーラ長老にお尋ねした。  

第2回    感情ウイルスの抗体①  

編集部    情報社会を生き抜く上で、目の前の情報を“情報”か“そうでないもの”かを区別するためには、たとえば「分析する力」「問いを立てる力」「考える力」「判断する力」などが必要だと思いますが、いかがでしょうか? 

■情報か、ただの感想か

 
    日本ではよく「あなたの感想は?」「どう思いましたか?」などと聞くでしょう?    インターネットを通じて膨大に流れているのは“情報”ではなく“感想”なのです。個人同士で感想を聞くぶんには問題ありません。たとえば、私が3人ぐらいの人の前でしゃべってから「あなた方の感想はどうですか?」と聞いたとします。それは「この人々はどのように話を受け取ったのか、どのように理解したのか」という確認です。返ってくる感想は人それぞれですね。感想は事実ではありません。
 
    本当の“情報”というのは、私が3人に向かって講義をした場合の“講義そのもの”です。講義をした人でもありません。また、講義を聞いた3人が感想を述べたり、レポートを書いたりするのはプライベートな世界になります。そのとき、レポートを客観的かつ具体的・論理的に、分析的に書いたならば、それも“情報”になります。それは他の人の勉強にもなるものです。
 
    我々一人一人、それが“情報”なのか“感想”なのか、分析する力を持たなくてはいけません。情報という仮面をかぶった感想に潜む大量の感情ウイルスに対する免疫を持たなくてはいけないのです。具体的には、感情や感想、つまり個人の考えというものをフィルタリングして捨てていくのです。そしてデータだけ取る。
 
    たとえば、世界各地では紛争や事件などがあって、人が死んでしまった情報を見聞きすると感情が入ったりもします。私も、故郷のスリランカで、コロナウイルスによって子どもまで死んでいると聞くと、心が締め付けられます。もしそのとき、私が感情に乗ったら、「いったい政府は何をやっているのか」「なんでしっかり管理しないのか」とか、自分の主観的な怒りやら政治批判にいってしまいますね。身の回りの人々が危険にさらされるようなことが起こったり、その危険性が自分にも及びそうになると、人々は感情に乗ってしまって、感情をデータとして流し込んで、よりひどい目に遭うのです。ですから、役に立つ仏教の教えでいえば、いつでも純粋なデータに、客観的なデータに合わせて判断することが必要なのです。
 
    感情が割り込んだものはデータではありません。専門家にも、感情をむき出しにしてしゃべったり、自分と違う考えの人を潰そうとしてしゃべったりする方々がいます。肩書きは知識人あるいは科学者かもしれませんが、そういう発言は、たとえ専門家であってもゴシップです。これは科学者だろうが哲学や宗教の専門家だろうが、どんな分野でも同じです。