アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「社会を良くするにはどうすればよいのか?」という相談にスマナサーラ長老が答えます。

[Q]

   
私たちが生きている社会を良くするためには、どうすればよいのでしょうか?
 

[A]


■「生き方」を発見すれば社会は落ち着きます

    あまり大げさに考えないほうがいいと思います。「社会」とはあまり具体性のない言葉です。「この社会を良くするために」という場合、自分の頭の中に浮かぶ具体的な社会は何でしょうか?    家族・仲間などの現実的な人物で構成されている社会なら自分にも何とかできるはずですし、できることをしていけば充分だと思います。
    社会という言葉の中身が、日本の社会、アジアの社会、西洋社会、世界などであれば、自分個人では把握も管理もできません。ですから、自分が具体的に知っている社会を良くするために、自分にできることをするしかないでしょう。例えば、社会を良くするために私個人にできる事と言えば、私の話を聞く方に「このように生きてはどうですか?」と生き方を教えるだけです。それ以上、余計なことを考えても意味が無いのです。社会を良くするために必要とする生き方について考えてみましょう。
    世の中どこを見渡しても、人類の役に立つのはブッダの教えしか無いのに、世界は仏教を好きでは無いのです。でも、これからの世代が仏教を通じて「生き方」を発見すれば、日本社会も少しは落ち着いてくるのではないかと思います。

■「執着しない」という生き方の提案

    世の中では、必死に生きたからといってどうなるものでありません。世界はただ闇雲に走れと言うだけで、何も答えを持っていない。財産も家族も肉体も死ぬ時には置いていくレンタル品です。なぜそれらを割り箸や紙コップのように思えないのでしょうか?    借り物に過ぎないモノにどこまでもしがみつく生き方は、まるで紙コップを大事に金庫にしまいこんでいるようなものです。
    死後に何を持って行けるでしょうか?    偉大なる知識人たちでも死ぬ時は朦朧状態になります。我々の肉体も、知識さえも、割り箸や紙コップ、食品ラップのように捨てていくものです。そう理解すれば、そこで中道的な生き方が成り立ちます。楽観主義でも悲観主義でもないクールな気持ちになれます。それは「執着しない」という生き方です。
    世の中にある、あらゆる苦しみは「執着」の一語で現せるのです。
    世の中のものすべて、何一つ自分のものにはなりませんし、思い通りになりません。体さえも使い捨てです。その通りでしょう?    難しい話ではないのです。何一つ自分勝手に管理できませんよ。一番嫌なのは、自分の思考・気持ち・考えさえも管理できないことです。
    私たちの心でさえも自由自在ではない。因果法則によって変化し続ける代物です。誰かが操作しているわけではなく因縁で変わるのです。「全て消えゆくもの。過ぎ去るもの」と理解したところで、「どう生きるのか?」ということが見えてくるはずです。人に何か言われたとしても気にしないことです。全て消えていく、使っては消える世界なのですから。それなのに、我々は三〇分話した内容で三〇年間悩むのです。全て捨ててゆく世界だと思って生きればどうでしょうか?
    「全て捨ててゆく」というのは、事実であって世間の法則です。それを認めることで、私たちは気楽にニコニコと生きていられます。自由な心が作れます。悩み・苦しみ・ウツ・落ち込みなど生まれなくなるのです。

■「慈悲」と「智慧」という二本足で世を歩く

    それでもあなたが、この社会を良くしたいと願うならば方法があります。「慈しみ」で生きることです。私たちは他の生命との関わりで生きていますね。「私たちは生命とどう付き合うのか?」という問いからもう一つの「生き方」が出て来ます。それが、生命を慈しんで生きることなのです。
    生命はみんな苦しんで生きています。虫一匹さえも想像を絶する競争の中で必死に生きています。人間が何よりも生命のことを心配すれば、一日にして世界は平和になります。私達が子供たちにまず教えるべきことは、生命を心配することなのです。そうやって「慈悲」と「智慧」という二本足で世を歩くのです。
    社会を改良するというのは大人が考えることですが、やはりうまく行きません。自分ができる範囲だけでも努力するしかありません。子供の教育でも「慈しみを育てて良い人間になるように」と教えてあげれば、そうやって育ち人格のできた子供は自動的に勉強もできるのです。競争心を煽って、怒りで子供を締め付けるよりはるかに結果が出ます。
    執着する生き方・奪い取る生き方は、楽しみより煩わしさが増えてゆきます。だから慈しみで、無執着で生きてみればどうでしょうか。我々の財産も、他の生命のお陰で得ているものです。生きる糧は自然について来るものです。他人から金だけ奪って、生きる喜びを微塵も感じられない人生って何なのでしょうか?
    現代社会は、「いかに苦しんで生きるか」ということを追求する生き方になっています。自分の妄想で執着の対象を作り出して、それに縛られて更に苦しんでいるのです。慈悲と智慧という二本の足で歩めば、どんな社会でも幸福に生きられます。うまく行けば解脱にも達することができます。



■出典      『それならブッダにきいてみよう:人間関係編」

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