〔ナビゲーター〕
前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)
〔ゲスト〕
朝野倫徳(阿弥陀寺)
長澤昌幸(長安寺)
慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第6回は、時宗の朝野倫徳さん(阿弥陀寺)と長澤昌幸さん(長安寺)をお迎えしてお送りします。
(5)踊り念仏と時宗
■仏性ありやなしや
前野 真言宗の回では、「あなたのなかには素晴らしい仏性、仏様のようなものがあるのですよ」というようなお話があったのですが、浄土系になったところから、「あなたの中に仏性なんてありませんよ、でも浄土に行ったら救われるのですよ」と転じたように感じています。そういう理解でよろしいのでしょうか?
朝野 いや、一遍さんは完全に本覚(ほんがく)だと思います。仏性ありきで、気づいた立場です。
朝野倫徳さん(写真提供=朝野倫徳)
前野 なるほど、そうなのですね。浄土宗、浄土真宗と時宗は少し違うということなのでしょうか?
長澤 浄土系は他の教えを否定しているわけではありません。大乗仏教においては、みんな仏性があって悟れる素質はあるのだけれども、それが煩悩で隠れてしまっている。だから凡夫である私が救われる教えは唯一お念仏しかないと考えます。これについては浄土系の宗派はすべて一緒だと思います。
前野 仏性がないわけではないのですね。
長澤 一遍上人は「一代聖教(いちだいしょうきょう)皆尽きて南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)になりはてぬ」、つまり、お釈迦様の教えを突き詰めていくと、私凡夫が唯一救われる教えは南無阿弥陀仏だけなのだと仰っています。
そのお念仏との向き合い方が宗派によって違っているということになります。違うからこそ宗派が分かれているのかなとも思いますけれども。
前野 でも似ていますよね。ちょっと言い方が違うだけで。もちろん時宗の方から見ると、浄土宗、浄土真宗とは全然違うのだと思いますけど。
長澤 まったく異質のものではないですからね。ただ、浄土宗の場合は「お念仏をすれば阿弥陀さんが救いますよ」、真宗さんの場合は、「自分が唱えているわけではなくて、信心から唱えさせていただくのですよ」というスタンスですから、時宗とはやはり少し違います。法然上人、親鸞上人、一遍上人と時代が進んでいくなかで、表現がどんどん変化し、深まって、簡素化していったのではないかと思います。
前野 より究極の方向に行ったということですね。でもみんなが救われるべきだという意味では同じですよね。大きい意味では。
長澤 はい。
──一遍上人の教えは本覚的ということですが、阿弥陀仏以外の仏様に対する信仰は芽生えなかったのでしょうか?
長澤 一遍上人は阿弥陀さん以外も信仰しています。神仏習合の時代ですので、数多くの神社、本地が阿弥陀仏の神社にお参りにも行っています。
神社は一遍上人が遊行する上での庇護者、パトロン的な要素も含まれていたと考えてもよいのではないかと思います。一遍上人は大人数を引き連れて旅をしていましたので、それなりの経費が必要でした。やはり布施をしてくれる人がいなければ集団は維持できませんので、神社とはそういう結びつきもあったのだろうと思います。
■踊り念仏のあれこれ
前野 先ほど、長野県の佐久で踊り念仏が自然発生したというお話がありました(第3話「時宗の発生と踊り念仏の始まり」を参照)。踊り念仏といえば時宗の特徴の一つでもあると思うのですが、もしかして今日は朝野さんと長澤さんが踊ってくださったりするのでしょうか(笑)。
朝野 踊りません(笑)。
前野 さっきのお札を配らないのと一緒で、皆さんは踊らないのですか?
長澤 よく「踊って」と言われますが(笑)。一遍上人の聖絵には足を跳ね上げて踊っているシーンがよく出てくるので、多くの皆さんは今でもそのようなダイナミックな踊りをイメージされていると思います。しかし現在の踊念仏は、能のようにゆっくりと摺り足をしていくような形です。総本山で薄念仏(すすきねんぶつ)というのを毎年やっていますけれども、終わった後に「いつ踊ったんですか?」とよく聞かれます(笑)。
薄念仏の様子(写真提供=長澤昌幸)
前野 そうなんですね(笑)。
長澤 一遍上人の生涯において、踊り念仏は一つの大事なキーワードですが、時宗700年の歴史のなかで踊りが中心だったのは一遍上人の時代ぐらいではないかと思います。教団が確立していくなかで、踊りは儀礼としての側面が強いものになっていきまして、歳末別時念仏(さいまつべつじねんぶつ)というようなものへと昇華していきました。
──盆踊りの起源が踊り念仏であるというのは本当でしょうか?
朝野 一遍上人は全国を行脚したときに踊り屋という高台を組み、高台の上では男のお坊さんや尼さんたちが集団で踊っていたといいます。お経自体も男女の混声合唱で、その宗教的なエクスタシーといいますか、それが高まって群衆が沸いたタイミングでお札を配っていくということをやっていたようです。
盆踊りの場合は高台の上というよりは、高台の周りを踊りの人たちが回っているような感じですけど、感じとしては似ているので、なんとも言えないところではありますが、もしかしたら関係はあるかもしれません。
長澤 踊り念仏と盆踊りの関係性に関する記述は残っていませんが、時宗と結びつきがあるのではないかという盆踊りはいくつか確認できるので、全くの無関係ではないと思います。どう立証するのかというのがはっきりしないのですけど。
──一遍の死後、踊り念仏はなくなったということですが、ものすごく流行っていた時期もあるのでしょうか? 教義の中で本質的ではないとのことで、なくなったのでしょうか?
長澤 なくなったわけではないんです。ただ、一遍上人の時ほど盛んではなくなったということです。ひとつのきっかけは南北朝期に戦場にお坊さんが派遣されていった、いわゆる陣僧(じんそう)の時代です。従軍僧は当然踊れませんので。ただその戦乱の最中でも、別時念仏だけはちゃんとやりなさいよと戒めていたようですので、まったく踊り念仏がなくなったわけではなくて、踊り念仏よりも他のことに重心がシフトしていったということだろうと思います。
踊り念仏は、踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)や薄念仏(すすきねんぶつ)という名前になって、現在も続いております。
朝野 一遍上人は「我が化導は一期ばかりぞ(わがけどうはいちごばかりぞ)」、つまり自分の教えは一代限りですよ、自分が死んだら終わりですよ、と言っていたのですが、当時の有力者、旅を支えてくれていたパトロンのような方が「こんな素晴らしい教えを一遍上人が亡くなったからってやめるのはもったいない」と言って、時宗は存続することとなります。そのときに、一遍上人より2歳年上の二祖上人(にそしょうにん)が、みんなに「親分はあなたしかいない」と言われて新たなリーダーになりました。
二祖さんの時代には高台でみんなで踊り狂うような踊り念仏はやっていません。おそらく二祖さんはリーダーになるにあたり、それまでのものを再構築して残していかなければいけないと考えて、その中で、あまりにエキセントリック、といってはなんですけども、これを続けていっては逆に後々よろしくないなというもの(踊り念仏)を落ち着かせていったのではないかと思います。
ちなみに、初代他阿弥陀仏である二祖さんは音楽的な才能もあり、声明(しょうみょう)という時宗のお経の体系化した方でもあります。歌読みの才能もあって、一遍さんの歌も二祖さんを弟子にしてからうまくなったと言われています。それほど多才な方だったようです。
■踊り念仏が迫害されなかったわけ
──一遍上人の踊り念仏は非常に極端で、今の時代から見るとエキセントリックにさえ感じます。実際、そのようにやっていたら他の祖師方のように比叡山から迫害を受けそうですが、実際にはあまりそういう話はなかったと聞きます。それはアニミズムを深く信奉されていたからなのか、お人柄によるものなのか、その理由はどういうところにあるのでしょうか?
長澤 最初に踊り屋ができたのは江ノ島の片瀬でした。場所は墓地の側や街道沿いで、あまり興行性というのはなく、慰霊鎮魂が主目的だったようです。その次は、うちの長安寺がある関寺(せきでら)です。聖絵には塀に囲まれている中で踊っている様子が描かれています。おそらく関寺再興のための資金集めに関与していたのではないかと思います。次の四条釈迦堂も、同じように囲われた施設の中で行われています。施設の入口にはもぎりがいて入場料を取っていたのだろうと推測します。次の市屋の道場では桟敷席があって飲食しているような様子が描かれています。
このように、踊り念仏は時代を経るにしたがって、宗教的側面よりも興行性、いわゆる勧進がメインとなっていったのではないかと思います。興行性があるところというのはパトロンがいて、それなりに庇護されていたと考えられますから、比叡山からの非難もあったにしろ、そこまで激しい非難ではなかったのだろうと思われます。
同時代の資料である天狗草紙(てんぐぞうし)など、一遍上人や踊り念仏に対して非難するような資料もあります。しかし、法難のようなことは起きていないということを考えると、ある意味一定の庇護というのを受けている中での踊り念仏だったのではないかなというふうに私自身は考えているところです。
(つづく)
(4)念仏の違い
(6)大乗仏教とテーラワーダ仏教