アルボムッレ・スマナサーラ
【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「孤独を愛すること」です。
[Q]
お釈迦様は「犀(サイ)の角のようにただ独り歩め」とおっしゃっていますが、孤独を愛して、孤独を楽しんでいてはダメでしょうか? 長老は「人と関わって仲良くしなさい」とよくおっしゃいます。その理由を教えていただければと思います。
[A]
■単独行とは精神的な自立のこと
スッタニパータに入っている『犀の経典(犀角経、Khaggavisāṇasuttaṃ)』は、究極の高度な哲学だから解釈がかなり難しいのです。「犀の角の如く一人で生活する」というのは、完全に煩悩を失くした方々の生き方で、それを一般人にもわかりやすく詠ったものですが、私たちはまだそこまで成長していないので、できる所から勉強しなくてはいけません。学問ができるからといって、六歳の子供が博士号を取るのは悪くないけれど、まず小学校に入りなさいということでしょう? 文字の書き方といった学問の基礎から始めなさいと。そういうことで、私たちは着々と〝単独生活ができるように〟進めていかなくてはいけないのです。
ここで単独行動というのは物理的なことではありません。精神的な自立のことです。聖者たちもちゃんと社会と関わって生活していましたが、精神的には完全に自由で、何にも囚われないのです。聖者でも知人が病気になったらお見舞いに行きます。「しばらくお目にかかりませんでしたが、どうかされましたか?」と。病気だとわかったら「そうですか。今はどんな調子ですか?」といったコミュニケーションはちゃんと取りますよ。ただ「あぁ、なぜ大事な信者さんから病人を出してしまったんだろう」などという精神的な悩み・執着はありません。無執着に、精神的な独立に達しているのです。
■「聖者の沈黙」を完成する
「沈黙」という言葉があります。宗教の世界ではよくやっています。例えばカトリックでは世間との関わりは全部カットします。世俗のコミュニケーションを断ち切って修道院に籠って暮らす。形だけは外界の誰とも顔を合わせないで修行をしているわけですが、あくまでも表面的な行【ぎょう】なのです。そういうものを仏教は認めません。
インドでも仏教が盛んだった時代には「沈黙行」をやっている人々がいました。お釈迦様はそこにもう一つ「聖なる」という言葉を付け加えたのです。「聖者の沈黙」を完成しなくてはいけないのだと。聖者の沈黙というのは「しゃべれない」ことではありません。頭の中でもゴチャゴチャしゃべっていないのです。頭の中はずーっと静かなのです。つまり、内面的な沈黙です。
人から「こんにちは」と言われたら、きちんと「こんにちは」と返しますが、それでも沈黙です。私たちは口でしゃべっていなくても、頭の中で、とんでもなくうるさくしゃべるわ、しゃべるわ、際限がありません。だから、それは沈黙ではないのです。逆に、口ではよくしゃべるけれど内面は冷静。興奮しない。波も立てず静かというのが「沈黙行」ですね。
だから、この単独で生きることは、経典では〝精神的な単独〟なのです。
世の中には、孤独を気取っているだけの人もいます。「私はブッダの言う『犀の角の如く』生きているんだぞ」などと言って、ろくに挨拶もしない、年賀状も出さない。お世話になった人々に年賀状などを送るのは文化的な習慣でしょう。一般的な社会のマナーぐらい守ったっていいのに。そういう人は、孤独行どころか、ただだらしないだけなのです。自我を張って、わがままで、ただ形だけをなぞっているのは、仏陀の教えにとって迷惑です。
■聖者の生き方を形だけ真似ることは危険
世間は「悟ったというけれど、それって何?」などと平気で質問して来ます。それはちゃんと詩偈に、詩にしてあるのです。なぜ詩にするかというと、後から編集できないように。好き勝手に改変されないように。「このまま暗記して覚えなさい」ということなのです。
『犀の経典』は、かなり古い経典として認められています。毎日実践できるだろうかと、何回読んでもびびりますよ。私たちは日々、社会とうまく関わりを持ち、社会に迷惑かけないで生きる--迷惑をかけない分だけ自由ですからね--そうやって精神的に安らぎを感じる。そこを強調・成長させて、精神的な独立に持っていきたいのです。ただ道徳を守ることだけでも、社会とのギクシャクした関係が消えますからスムーズに運ぶようになります。丸い穴に四角い釘は打てないでしょう? だから、丸い穴には丸い釘を通すのです。さらに「道徳」という潤滑油もさしておく。そうするとスムーズに打てるのです。ぶつかることは無いし、抜きたい時には簡単に抜くことができます。つまり、はめたい時ははめて、抜きたい時は「はい、わかりました」とスッと抜く。カチッとはめてカチッと外れるという状態で生きるのが良いのです。
しかしまぁ、聖者の猿真似はしない方がよろしいのです。形だけ真似ることで、すごい悪人になってしまう危険がありますから。むしろ社会とスムーズな関係を保つことに力を注いでください。そうしていると自分が何となく「精神的に自由になっている。後腐れのない生き方をしている」とわかるのです。精神的な自由・独立とはそのことです。挨拶するべき人にはまず挨拶をする。相手も喜んで、挨拶を交わしてそれでOKです。精神的な自由とは、そういうところに生まれてくるのです。
■出典 『それならブッダにきいてみよう: 人間関係編2』
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