(鎌倉一法庵住職)


山下良道


矛盾から始まる新しい次元へのジャンプ


 まず最初に、サンガ新社の設立おめでとうございます。

 昨年夏、株式会社サンガの活動を牽引してこられた島影透さんが、突如この世界から姿を消されたあと、本当にいろいろあったと思いますが、2人の編集者によって立派に事業が再スタートされたことそのものが、何かを雄弁に物語っているでしょう。株式会社サンガは主に仏教書の出版を主要な活動としてきましたが、この危機的な状況のなかにあっても、自分達が出版してきた仏教書の教えを忠実に、リアルな出版ビジネスの世界で実践しようとしています。この真摯な姿勢が多くの人の共感を生んだようです。理想は理想、現実は現実。ともすれば、その2つを安易に分けがちですが、あえて2つを結びつけようとしているサンガ新社の設立の志は素晴らしいものです。これからも応援していきます。


 そのサンガ新社から与えられたテーマが「私たちの幸福とは」です。この普遍的なテーマを、私とサンガ創設者の島影透さんとの不思議としか言いようがない縁から考えてみたいと思います。


 人間ひとりでは何もできない、何も現実化しない。人と人とが出会った時から、何かが動き始める。皆さんの人生もそういうことの連続だったでしょう。一見たったひとりでやっているように見える坐禅、瞑想にしても、人との出会いがなければ始まりません。それは勿論、先生との出会いです。もうそれが全ての全て。禅の伝統のなかでは「正師(しょうし)」と呼ばれます。この正師に出会わなければ、自分勝手な坐禅になってしまうので、それならば坐禅なんかしないほうが良いとまで言われます。自分の間違った思い込みの方向に進んでしまうから。

 坐禅、瞑想を中心に据える社会の中での「ダルマ」の活動も、人と人とが出会うことで、現実の動きとなる。最初はたったひとりでダルマの活動を始める。誰からも注目されない日々が続く。それでも地道に続けていると、単なる好奇心からにしろ、誰かが近寄ってくる。この人はいったい何をしているのか? 言葉を交わすうちに、非常に共感する部分もあるので、やがて一緒にやり始める。さらに、次々と共感し、参加する人が増えて、大きなダルマの運動になってゆく。歴史の中で無数の例があります。

 私自身、3人の正師に出会うことで、ダルマの世界に入りました。最初は只管打坐の内山興正老師。そのあと、マインドフルネスのティク・ナット・ハン師。そして21世紀に入ってから、テーラワーダ仏教のパオセヤドー。この3人の正師に出会うことで、私の知らない深い世界が本当に実在するのだとわかり、思い切ってその世界に飛び込むことができたのです。その過程で、島影さんとも出会いました。


 私が島影透さんと出会ったのは、ティク・ナット・ハン師に出会った後に、高知県の山奥に設立した渓声禅堂でした。1998~99年頃でしょう。私の活動を知ってる方から紹介された島影さんは、我々の接心に参加されたのです。その出会いから、サンガの島影さんの人生が大きく動き始め、やがては日本の仏教の歴史まで変えてゆくとは、勿論、その当時の我々が思いも寄らないことでした。


 その頃の私は、実は大きな迷いのなかにいました。というのは、私は2つの伝統に心を奪われていたからです。1つは内山興正老師から教わった「アタマを手放しの只管打坐」。その伝統のなかで、正式に出家得度して、既に十数年も雲水として只管打坐を続けてきました。でも、同時に、ティク・ナット・ハン師から直接伝えられた「好き嫌い無しに観察するマインドフルネス」にも強く惹かれていました。

 内山興正老師とティク・ナット・ハン師。私がこころの底から尊敬する2人の先生から、直接教わったその教えは、私にはどちらも真理そのものでした。

 でも、やはり二つは矛盾してるとしか思えない……

 思い(アタマ)を手放し、手放し、手放し、百千万回続けて行く。そうすることで思い以上の自己を実現する。でもそこには「心を観察する」ことはありませんでした。

 逆に、マインドフルネスは、呼吸、身体の感覚、こころの動きなどを対象として、それを出来るかぎり観察することが肝とされる。その観察を「好き嫌い無し」に、平静さで行う。

 うーん、やはり「手放し」と「観察」。これは、同時には成り立たないのでは?

 アメリカで坐禅を教えていたときに既に、ティク・ナット・ハン師の英語のマインドフルネスの本に出会っていましたが、そのときからの疑問でした。では只管打坐の雲水として、マインドフルネスのことなど忘れるべきか? いやいや、1995年、オウム事件の直後の京都で直接お会いしたとき、ティク・ナット・ハン師の圧倒的な存在感を経験してしまったので、それを無かったことにするなど不可能。

 いったいどうしたらいいのか? ここは、その矛盾と正面からぶつかるしかないだろうな。ここで誤魔化してもしようがない。たぶん、当面は混乱は続くだろう。でも、この矛盾に正面からぶつかることによって、たぶん「真理」が見えてくるだろう。いまは想像もつかない真理。いまの世界観、常識の延長上にはない真理が。そう覚悟を決めました。

 その「真理」が見えてきたのは、21世紀に入ってから東京に一時的に滞在されていたパオセヤドーに弟子入りして、ミャンマーに連れていっていただき、テーラワーダ仏教の本格的なサマタ・ヴィパッサナー瞑想を徹底的に完了した時でした。その「真理」を更に、追求し、深化させ、誰にもわかるように理論化するために、ミャンマーから帰国後の十数年が費やされました。

 矛盾に忠実であること。決して誤魔化さないこと。たとえどんなに苦しくても。


 島影さんも私と同じような道を歩みました。長い間、禅の修行者であった島影さんは、渓声禅堂の接心のあと、私が紹介したテーラワーダ仏教の長老に、早速会いに行きました。その時、ここに何かあるとすぐに実感されたのでしょう。そこからの行動は驚くほど早く、テーラワーダ仏教の本を出版するための出版社を、一気に立ち上げたのです。島影さんの「株式会社サンガ」は、何十年の実績のある仏教系の他の出版社とはまったく違う立ち位置でした。伝統がないかわりに、すべての伝統から解放されて、実に変幻自在の出版活動を始めました。皆さんがよくご存じのように。その活動は、日本の仏教史にまで大きな影響を与えました。「小乗仏教」の名前であまり重要視されてこなかった伝統に、こんなに豊かな宝ものがあると、日本の多くの人は初めて知ったので。


 さて、テーマに戻りましょう。「私たちの幸福とは」


 幸せは、意外なことに「矛盾」と強く関係する。

 矛盾から目をそらしたら、幸せには行き着かない。不思議です。何故なら矛盾は心の葛藤を生み、それは苦しいものだから、矛盾から目をそらしたほうが幸せになれるように思える。

 いえいえ、そうではないのです。我々が矛盾から目をそらさずに、しっかりと充分に自分の内なる矛盾に苦しんだ時にのみ、あるジャンプが起こります。新しい次元に飛ぶのです。今までの次元では矛盾だったものが、新しい次元では矛盾でもなんでもなくなる。その新しい次元こそ、幸せの存在する場所。

 いままで、「思いの手放し」と「観察」は矛盾しているとしか思えなかった。でもその矛盾に耐えながら、瞑想を続けてゆくとあるジャンプが起こります。いままでの「古い思い」を手放して入って行く次元には、「好き嫌い無しの観察」をするまったく新しい主体があるのです。だから、「思いの手放し」と「好き嫌い無しの観察」は矛盾するどころではない。お互いを激しく必要としている関係だったのです。

 貪りと怒りという反応ばかりしてきた「思い」を手放すと、まったく新しい次元が開かれて、そこでは貪りや怒りから解放された平静な新しい主体が、好き嫌い無しに観察している。そこは勿論、幸せな場所。貪りや怒りという苦しみの原因がもうないから。


 株式会社サンガは、2017年に私の『光の中のマインドフルネス』という本を出版してくれました。その推薦文を漫画家でコラムニストの辛酸なめ子さんが、以下のように書いてくれました。


「私たちは、最初から生まれてもいないし、死ぬこともない。この世界は実在していない……衝撃の事実で心が無になりました」


 今までの次元では、我々は生まれて死ぬ存在。どんなに健康に気を使ってがんばっても、そこからは逃れられない。だから、仏陀は人生は苦(苦諦)と言われた。出口無し。でも、矛盾に耐えて新しい次元にジャンプした我々はもう知っている。その新しい次元の新しいわたしは、最初から生まれてもいないし、死ぬこともない。だから、苦しみはもう完璧に終わっている。究極の幸福がそこにある。

 矛盾から逃げなかった島影さんが創業した株式会社サンガが、サンガ新社に生まれ変わり、これからも究極の幸福を多くの人達に伝えていくことを願ってます。