〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
大場唯央(静岡県大慶寺)
佐々木教道(千葉県妙海寺)


應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第3回は、日蓮宗の大場唯央(静岡県大慶寺)さんと佐々木教道(千葉県妙海寺)さんをお迎えしてお送りします。
笑顔と気合いを携えて、自分流をイキイキと貫かれている大場さんと佐々木さん。お檀家さんからも地域の方からも愛されて、人の輪の中心で、力強く仏教の実践をされている姿が眩しいお二人です。紆余曲折を経てお坊さんになるまでの道のりや、宗祖日蓮上人のお話、そしてこれからの日本のお寺の可能性まで、尽きることなくお話が展開していきます。


(1)僕たちはなぜお坊さんになったのか


■挫折からの始まり

前野    皆さん、こんばんは。今日は「お坊さん、教えて!」の第3回です。私は司会を務めます慶應義塾大学の前野隆司です。

安藤    多摩美術大学の安藤礼二です。

前野    本日は日蓮宗の大場唯央(おおばゆいおう)さんと佐々木教道(ささききょうどう)さんをゲストにお迎えしております。

佐々木    千葉県勝浦市妙海寺で住職をしております、佐々木教道43歳です。よろしくお願いします。

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佐々木教道さん
(写真提供=佐々木教道)
大場    私は静岡県藤枝市で大慶寺というお寺の住職をしております。大場唯央36歳です。
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大場唯央さん
(写真提供=大場唯央)
前野    若い!    よろしくお願いいたします。私は59歳でございます。

佐々木    なんか年齢言わないほうがよかったですね(笑)。

前野    言っても大丈夫です(笑)。お二人とも若くして住職なんですね。なんとなく住職の方ってもっと上という印象があるのですけど。

佐々木    私は大学を卒業してすぐの22歳のときにお寺に来ました。最初の2年間は父のもとで住職になるための修行をして、24歳で妙海寺の住職になりました。

大場    住職歴が長いのですね。お父様はもう住職を引退されたのですか?    それとも別のお寺に。

佐々木    別のお寺です。

前野    ということは、お父様がお寺をいくつも持っていてそのうちの一つの住職になられたということですか?
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佐々木教道さんとお父様
(写真提供=佐々木教道)
佐々木    いえ、妙海寺の先代の住職が父の大先輩だったのですが、妙海寺に後継ぎがいなくて、うちから1人どうかという話になったんです。私は4人兄弟なのですが、4人のうち1人を妙海寺にどうかと。そのときに私に白羽の矢が立ちまして。それがなかったら私、今頃のたれ死んでいるかもしれません(笑)。
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ご兄弟と一緒に
(写真提供=佐々木教道)
前野    なるほど。では住職になった経緯を詳しくお聞きしていきたいと思います。今までお話を伺った真言宗と天台宗のお坊さん4人のうち、3人はもともとお坊さんにはなりたくないと思っていて違うことをやっていたけれど、途中でやっぱりやりたいと思ってお坊さんになったと仰っていました。佐々木さんの場合は?

佐々木    まったく一緒です。父方も母方も祖父の代から日蓮宗のお寺で住職をしていたので、長男の私が当然後を継ぐべきという暗黙の了解がありました。でも自分自身はお寺というところに生きていながら、お寺がどんな場所で、仏教がなんたるかをまったく知らなくて、違和感ばかりが目についていたんです。
    特に小さい頃は「お前の家は坊主丸儲けでいいな」なんてことを言われたり、袈裟を着て歩くとみんなに馬鹿にされたりするので、お坊さんというのは頑張ってもどうしようもない部分があるのではないかと思って、それだったら一般の仕事をして、一般的な幸せをつかむという体験をしてみたい、と大学を卒業するくらいまでは思っていました。
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日蓮宗のお寺に生まれ育つ
(写真提供=佐々木教道)
前野    でも大学を卒業する22歳でお坊さんになったのですよね。突然考えが変わったのですか?

佐々木    私たちはお寺に住まわせていただいていますので、もし父が急に倒れたとすると、私たちは家族でお寺から出ていかなければいけないんですよね。父だけじゃなく、4人の兄弟も含めてみんな出ていかなければいけません。三男がその頃からお坊さんになるという話をしていたのですが、私も長男の責任として資格だけは持っておいたほうがいいかなと考えました。
    私、ずっと野球をやっておりまして、できれば野球選手になりたいと高校時代は夢見ておりました。当時、立正大学はとても野球が強かったので、ならば野球をやるために立正に入り、長男の責任としてお坊さんの資格を取ろう、この2つが大学時代にやるべきことだと思ったんです。
    しかし野球は1年生のときに挫折。野球をやめるときには自分の人生を失うくらいの喪失感がありました。その後は種々のアルバイトを体験しながら、自分に合う仕事はなんだろうと自分探しの時間が始まりました。
    しかしそこで再びどうしようもないくらいの挫折をして落ち込んで、なぜ自分はこうなってしまったんだろうと長く自問自答したんです。そのときに気ついたのが、自分さえ良ければいい、自分さえ儲かればいい、自分さえ幸せになればいい、と自己中心的な思いが強かったということでした。
    自分の人生には他者がなかった、そういう結論に到達したとき、ちょうど妙海寺へ来ないかというようなお声がけをいただきまして、自分には務まるかわからないけれども、まずは行ってみて、自分にできることをやってみて、本当に合うならば続けていこうと思いました。確信的なものは何もなかったのですが、そのようにしてお寺に入りました。

■三男でもお坊さんになれる!?

前野    大場さんはどのような経緯でお坊さんに?

大場    お坊さんになりたかったか、なりたくなかったかで言うと、別にどっちでもなかったんですよ。そもそも選択肢にありませんでした。

前野    お坊さんの家系に生まれたわけではない。

大場    いえ、お坊さんの家系です。父が住職をしていた大慶寺で生まれ育ったんですけども、男3人兄弟の末っ子なので、継げとも継ぐなとも言われなかったんですよ(笑)。当時は長男が継ぐという価値観も強かったですし。だからといって他にやりたいこともなく、将来の夢がない幼少期でした。将来の夢を書かされるのがしんどかった記憶があります。
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幼い頃の大場唯央さん(中央)
(写真提供=大場唯央)
    それで大学2年のときに、これから就活とかどうしていこうと思っていたら、父親から「お坊さんという選択肢もあるよ」と言われて、「え、三男でもなれんの?」とちょっと興味がわきました(笑)。それでとりあえず仏教の勉強をしてみようと、大学に通いながら立正大学の夜間にダブルスクールみたいな形で通ったんですよ。そしたら、「ああ、なにけっこう面白いじゃん」って思って。
    それで仏教の勉強をし始めて、その頃、祖父が亡くなったんですけれども、通夜とか葬儀にいらしていたお坊さんたちが、「一番お坊さんに向いているのは三男なんだ」と祖父が言っていた、ということを話していたらしいんです。
    それを間接的に聞いて、「あ、そうか、じいさんがそう言ってくれているのであればやってみようかな」と、それが後押しになってお坊さんをやり始めました。
    今は天職なんじゃないのかなと思うくらい、楽しいですね。合っているという気がします。
    唯一苦手なのは字で、あれだけはまだクリアできないんですけど(笑)、お坊さんというあり方は、僕に今しっくりきています。お坊さんイコールお寺に勤めている人、というようなイメージがありますすけど、もう少し広い意味でお坊さんを捉え直して今いろいろやっているところです。

前野    広い意味で。

大場    住職じゃなくてもお坊さんが活動できるフィールドがあるんじゃないかなと。それは教道さんも同じ思いだと思いますが。

前野    お二人とも男兄弟が何人もいらっしゃって、その方たちはお坊さんになられたのですか?

佐々木    うちは三男もお坊さんで、父のお寺の副住職をしています。

大場    僕のところは長男もお坊さんです。かつて父が2つのお寺の住職を兼務していたので、一つのお寺の住職を早いうちに兄が継いで、父が昨年亡くなったので、もう一つのお寺である大慶寺をいま私が預からせていただいています
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ご家族とともに
(写真提供=大場唯央)
前野    お祖父様が「三男がお坊さんに一番向いている」と仰ったそうですが、そもそもお坊さんに向いている人ってどんな人なんですか?    大場さんのどんなところが向いているとお祖父様は思ったのでしょうかね。

大場    けっこう自慢なんですけど、僕、めっちゃ努力できるんですよ(笑)。そういうキャラじゃないですか。

前野    格好いい。それを自慢できるのすごいですね。

大場    努力できるので、たぶんそういうところかなと。

──お坊さんが合っているなとどのようなときに感じますか?

大場    一言で言うと、僕は救うことに救われているんです。誰かを救ってあげようだなんて、そんなおこがましい気持ちはありませんけど、誰かから気持ちが楽になったとか、救われた、というようなことを聞くと、それを聞いて僕が救われるんです。ですから、お坊さんとして合っているなと思います。


(2)自由で闊達な日蓮宗


■日蓮宗は自由度が高い?

前野    お二人のお話を聞いていて、日蓮宗って自由なのかなと思ったのですけど、お二人が自由なのですか?    それとも日蓮宗が自由なのですか?

佐々木    曹洞宗さんとかの話を聞いていると、日蓮宗は自由度が高いと感じますね。自主性を重んじるというか、けっこう各人に委ねられている部分があるので、自分のカラーを出しやすいと思います。
    僕は、20年くらい妙海寺でやっていますけど、最初の10年くらいはずっと否定されて続けて、ここ10年くらいでやっと、ま、それもいいんじゃないかと認めていただけるようになりました。否定されてもつぶされることはなかった。それは感謝していますね。

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佐々木教道さん
(写真提供=佐々木教道)
前野    誰に否定されたのですか?

佐々木    地域のお寺さんなどですね。あいつはなんてふざけたことをしているんだ、と。

前野    どんなふざけたことをしたんですか?

佐々木    僕がいる妙海寺は、今は毎日いろいろな方が来てくださってありがたいのですけど、僕が来た当初は誰も来てくれなかったんですよ。お墓参りには来るけど、お寺の中に入って来る人がいなくて。
    このままだといくら待っても誰も来てくれないだろうと思って、取っ掛かりとして仏教を音楽に翻訳して、ライブハウスや病院や学校で歌うことにしたんです。仏教の教えをいろいろな方にもっと軽くわかりやすく伝えたいと思って。しかし周りの方たちは「急に住職になったと思ったら歌い始めた!    なんだあいつは!」と。そこから始まりました。 

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仏教を歌に乗せて

(写真提供=佐々木教道)


前野    大場さんも変わった住職をしているのですか?

大場    自分としてはど真面目にやっているのですが、変わってると言われることはありますね。

前野    どんなことをど真面目にやっているのですか?

大場    お寺でコンサートをしたりですね。僕は教道さんと違って歌いませんけど(笑)、企画をしたりとか。今はお寺でコンサートも普通になっていますけど、当時は珍しくて。

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大慶寺で行われたコンサート。当時は珍しかった

(写真提供=大場唯央)


    あるいは「そもそも法事ってなんのためにあるんだろう」と根本から考え直して、ちょっとやり方を変えてみたこともあります。あるとき檀家さんで若くしてお亡くなりになった方がいたんです。その供養をするにあたって、今の法事、いわゆる何回忌というのは、「家」が主体となって家族や親族でやる供養だけど、たとえば「友達」が施主になってもいいじゃないかと思ったんです。それで、じゃあ友達が供養するなら、どんな場がいいだろうかと考えて、まず服装は喪服じゃなくて一緒に遊んでいたときのような平服で来てくださいと。
    そしてお勤めをしたあとは、いわゆる普通のお年忌ですとその後精進落としのお食事をする場がありますけど、もちろんそういう畏まったお食事もいいのですが、友人が施主となる場で一番いいのはなんだろうかと考えに考えて、法事が終わったあと境内でバーベキューをしたんです。
    僕の中ではいろいろ考えてど真面目にやったんですよ。しかし賛否両論ありまして。

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境内に整備されている芝生広場

(写真提供=大場唯央)


佐々木    怒られるパターンじゃないですか?(笑)

大場    そうそう(笑)。参列された方々はとても喜んでくれました。しかしバーベキューの部分だけが切り取られると「お寺でバーベキューとは何事だ!」となるんですよ。

佐々木    表面だけ見られるんですよね。僕らには歌う理由があるし法事を変える理由もある。でも理由は伝わりづらくて、表面だけが見られてしまう。真面目にやっているのに、ふざけていると言われるんですよ、だいたい。

前野    二人ともふざけてないんですね。真面目に歌って、真面目にバーベキューをやっているのですね。

大場    バーベキューだけ切り取らないでください(笑)。友達が施主となって供養する、ポイントはそこですから。

■宗祖日蓮とは

安藤    第1回の真言宗と第2回の天台宗の会で、最空海はロックンローラーで、最澄はイノベーターであるという話が出ましたけれども、日蓮宗の宗祖である日蓮も大変個性的な人ですよね。激しい人であると同時に、きわめて実践的な人でもあったと思います。
    日蓮という人はお二人にとってどういう存在なのでしょうか。また、日蓮のどういう教えがご自分に響いてきたのでしょうか。そういったようなことをお聞きできればと思います。

大場    日蓮上人が出てこられたのは鎌倉新仏教の中でも後半です。仏教の歴史を少しおさらいしますと、552年に仏教が日本に伝来して以降、奈良、平安と時代が進んで、鎮護国家の役割から貴族の方々が現世での繁栄を願うようになりました。そしてその後は、亡くなった後の浄土を願ったりするようなものになりました。当時は民衆の仏教ではなかったんです。そののち、真言宗さんや天台宗さんを経て、鎌倉時代には法然のような方も出てきて、仏教が民衆にも広まっていきます。
    いわば、日本の仏教がどんどんアップデートしていって、禅と念仏が日本仏教の二大柱になり、そんな中で肝心な法華経が忘れ去られるという状況になりました。それを見た日蓮上人が「いや、ちょっと待って、法華経を捨てちゃダメでしょ」みたいな感じで始まったのが日蓮宗です。
    第2回の天台宗さんの回でもお話があったように、法華経って仏教の中の土台のようなものなんですよ。それなのに、それが忘れ去られて禅と念仏ばかりが広まってしまった。その状況に危機感をもった日蓮上人が覚悟と情熱をもって、「やっぱ法華経が必要だよ」と訴えた。鎌倉の中の揺り戻しなんだろうなと僕は感じています。

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大場唯央さん

(写真提供=大場唯央)


安藤    法華経は大変長く複雑な構成をもったお経ですけれど、法華経の核心というのはどういうところにあると思われますか?

佐々木    法華経の核心ですか。僕が思う法華経の核心、というよりは日蓮宗の核心かもしれませんけど、まず一つが、

「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか(来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ)」

ということです。

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    自分たちがこの世界でどうやって仏様に変わっていけるのかというのが仏教であって、そこを大事にしないといけない、ということを言われているということが一つ。それからもう一つ、

「一身の安堵を思わば先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし(自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきである)」

    自分の幸せを実現していきたいならば、まず周りの幸せをきちんと祈っていくこと。地域であり社会であり、コミュニティをきちんと確立していくこと。この2つが僕は法華経を根底とした教えで大事なことだろうと思います。
    私たち自身が自分たちの住んでいる世界を浄土にして、みんなで幸せをつかんでいく。こういうあり方が、僕が法華経または日蓮宗を好きなところです。


(3)実践に重きを置く日蓮宗


■授記と菩薩

安藤    法華経の中では授記(じゅき)が説かれています。いわば全ての人が仏になれるという未来への約束にして予言ですよね。すべての人は菩薩という仏になる過程にあり、将来は仏になれる。それが日本で法華経がこれだけ支持されている大きな要因の一つであると思われます。今まさに仰っていただけたように、この身をもって実践的に社会を変えていけるというところですね。さらには、地涌(じゆ)の菩薩が地下から無数に湧き上がってくるというヴィジョンもある。未来を担う無数の菩薩たちの誕生です。そのようなところに法華経の特色があるのではないかと素人ながら考えるのですけれども、いかがでしょうか?

大場    仰る通り、法華経の前半部分で大事にされているのは、誰でも仏になれるというところですよね。仏教というのは仏の教えであり、仏になる(成仏を目指す)教えであるというのが法華経の前半部分で大切だといわれていることです。
    授記というのは、お釈迦様が弟子たちに「実践すれば、未来には仏になれるからね」と言っているだけなんですよ。何か特殊能力を与えているわけでも、仏の種的な具体的な何かを与えているわけでもなくて、弟子たちに「あ、俺は仏になれないって今まで思っていたけど、やればできるんだ」というマインドチェンジを与えたのが授記なんです。「菩薩として行を積めば仏になれるんだ」と、受け手側が菩薩の自覚をしていくということですね。
    もう一つ大切なのは、法華経の後半で説かれている「仏はまだ常にここで教えを説いている」という部分です。その二つが、法華経の中では大事だと言われていますね。

佐々木    仏様が今もここにいて、仏様がいるからこそ今ここも浄土である、ということが法華経の根幹であり、なかなか伝えづらいところでもあると思います。
    それからもう一つ、いま菩薩という表現が出ましたので、それについて説明したいと思います。

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    菩薩というのは私たちの心にある10個の世界(十界)の中の一つです。一番高い位にあるのが仏様の位で、ここは本当に心優しく安定した仏の悟りの境地です。そして次が菩薩という位で、自分の幸せと他者の幸せをしっかりと結びつけて、自分のことも幸せにしながら他者を救済していく、他者に対しての努力を惜しまない、そういう生き方、心持ちの世界です。
次の縁覚(えんがく)というのは、自然の法則など、さまざまな大切なことを悟り得ているのだけれども、まだ他者に対してその教えを説けていない段階。声聞(しょうもん)も同じように、たくさんの学びを得ているのだけれども、他者のために説けていない段階です。
その下に、六道(ろくどう)という私たちが住んでいる6つの世界があります。
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    天というのは嬉しくて舞い上がっている状態です。褒められると嬉しいですよね。「あなたは格好いいですね」「かわいいですね」と言われると有頂天になります。でもそれは一瞬であって、また普通の状態に戻ってしまいます。
    人というのは平か(たいらか)、普通の状態です。修羅というのは人を傷つけても、他者を押しのけてでも自分が成功していこうという状態で、畜生というのは本能のままに生きてしまう状態、餓鬼というのは、これでは足りない、もっと欲しいもっと欲しいと飢えて苦しい状態です。そして、地獄というのは修羅、畜生、餓鬼のすべての苦しみが備わって地の底に縛り付けられたような苦しみを得てしまっている状態です。
    仏から地獄までの十界、これが私たちの心の中にあって、心持ち次第で仏様にもなれば、地獄にも落ちてしまいます。
    輪廻というと生まれては亡くなり、また生まれ変わるというものだと思われがちですけど、お釈迦様は私たちは生きている間にも一瞬一瞬、輪廻をしているのだと仰ったんですよね。自己中心、自分さえ良ければいいという思いが少しずつ削れて、他者の幸せを願えるようになると、仏の世界に近づいていける。私たちが自分たちの体をもって心をもって、どうやって仏になっていくのか、それが仏教の根源なんです。

■まちづくりは菩薩の実践

佐々木    そのために六波羅蜜(ろくはらみつ)という修行法だったり、いろいろな修行法があるのですが、修行でまず目指すべきは菩薩です。
    菩薩というのは自分の幸せと他者の幸せを重ねて生きていく人です。自分の幸せを疎かにしては他者を幸せにし続けることはできません。自分はごはんを食べないで他者にばかり与え続けると自分は餓死してしまいます。けれども自分さえ良ければいいと言って自分ばかり食べていると、他者を救うことはできません。
    この自利利他円満の姿を目指すというのがまず私たちお坊さんが目指さなければならない姿であり、それを実践していくのが仕事であると思っています。
    僕は今、仲間と一緒に「菩薩づくりでまちづくり」というテーマで活動をしています。
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    自分自身も幸せになりながら他者を幸せにする。この目標をみんなで共通に持ったとき、支え合いのできるコミュニティが作れると思っています。
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    日本では今後、人口がどんどん減っています。僕が住んでいる勝浦はすでに3万人から1万7千人まで人口が減りました。近くの小学校では2人しかいない学年もあります。そういう時代に菩薩が増えると、実は菩薩率が上がるんですよ。菩薩率が高まれば、人口が少なくても、強いコミュニティができると思うんです。
    僕はこれが、日蓮上人が言われていた立正安国(りっしょうあんこく)の一つの姿なのかなと思っています。
    菩薩を一人でも増やし、支え合える強いコミュニティをきちんと作っていく。それが世界を浄土にしていく一つの実践だと思います。自らが菩薩を目指し、そして菩薩を増やす、その活動を僕はしているかなと思っています。
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地域の方とともに強いコミュニティづくりに取り組む
(写真提供=佐々木教道)
前野    人の幸せを願うというのは幸福学と同じだなと思って聞いておりました。幸福学でも利他的な人は幸せで、利己的な人は残念ながら幸福度が低いことがわかっています。
    一つ質問なのですけど、第1回の真言宗では、みんな大日如来であって、それを思い出すのが悟りだよと仰っていたんですね。みんな生きている今ここで悟れるんだよ、全員悟れるんだよという意味では、日蓮宗と同じことを違う表現で言っているのかなと感じました。それから天台宗も法華経を経典とされているので、違うようで同じであるような感じがしたのですが、違いはどこなのでしょうか。それともお釈迦様が言ったことだからいずれも同じなのでしょうか?

大場    日蓮上人は天台宗の最澄さんがやろうとしたことを、もう一度実現したいという思いがあったので、そこは同じだと思います。
    大日如来については、僕は大日如来も阿弥陀如来も、日蓮宗では釈迦牟尼仏ですけど、報身(ほうじん)が違う、報土(ほうど)が違うだけで、法身という概念では一緒なのかなと僕は思っています。たとえば阿弥陀さんは極楽浄土という浄土の仏さんであり、お釈迦様は娑婆の仏様、釈迦牟尼仏です。その点では違うんですけど、法を身体とする存在としては、僕は一緒と捉えていいのではないかと思っています。
    ですからなおさら、ここは娑婆だからお釈迦さんを捨てないでよ、という感じなんですよね。阿弥陀さんもすごい存在ですけど。
    僕も教道さんもまちづくりをやっていますけど、法華経の教えがあるからまちづくりをやっているんですよね。日蓮上人のすごいところは、法華経という物語を一人称の物語として読んで実践されていったところです。
    ですから、僕も教道さんも法華経を一人称で読むということを実践しようとしているんです。実践のあり方っていうのは人それぞれ違うけれども、核はあくまでも法華経です。
    僕、東京から静岡に戻ってきたとき、東京への未練というか憧れが強くて、東京にあって藤枝にないものばかり探していたんですよ。でもあるとき「それって法華経と全然違う思考だな」「法華経って、自分が生きているここが浄土だから、もっと自分が住んでいるところをより良い浄土にしていこうという思想なのに」ってふと思ったんです。
    だから僕はまちづくりを始めました。東京に憧れるのもいいけど、ここは藤枝だから藤枝を大事にしようと。娑婆だからお釈迦様を大事にしようと。そんなイメージです。
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藤枝を舞台にまちづくりの活動をされている大場唯央さん
(写真提供=大場唯央)
安藤    法華経は、娑婆即寂光土(しゃばそくじゃくこうど)、要するに誰もが生活しているこの世界こそが寂光土、浄土であるということと、未来に仏がなる可能性をみんな秘めている、久遠(くおん)の仏というのが自分たちの中にいるんだということを約束してくれるわけですよね。この現実の世界を菩薩として寂光土に変えていくという使命がお二人の中にも色濃く生きていることを、すごくストレートにお話いただけたように思います。
    日蓮上人もそもそも自分は上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)なんだ、地涌の菩薩の一人、その筆頭なんだと、そういうふうに自分を位置づけていたと思います。日蓮上人のそういった側面がお二人のモデルになっているのかなと感じました。


(4)今ここで努力すること


■厳しくも優しい日蓮上人

佐々木    日蓮宗の法華経って、優しいんですけど厳しいんですよ。仏のなり方にはいろいろあるけれども、やっぱりやるべきことはやりなさい、努力しなさいと言うんですね。私が日蓮上人のことを背中を追うべき方であると思うのは、自分の命を投げうってでも自分の意思を貫くところ、初志を曲げないところです。
    僕なんかもし殺されそうになったら、「ごめんなさい、僕が間違ってました」ってすぐに言ってしまいそうですけど、日蓮上人はそうじゃない。僕らには到底真似できない意思の強さと、自分に対する厳しさを持っていらっしゃいました。
    僕らは菩薩としてのその姿を追いながら、自分が菩薩となり仏になれる可能性があるのであれば、一歩でも近づきたいと思ってやっています。毎朝、日蓮上人の正面で朝のお経をあげますけれども、毎日「そんなんじゃだめだ!」と厳しいお叱りを受けている、そんな気持ちでおります。そういう叱咤激励をいただきながら、少しでも自分が菩薩として生きられるように、非常に厳しいなと思いながらも、日々過ごしているところはありますね。主観的な話になりますけれども。

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お寺でおつとめをされる佐々木さん
(写真提供=佐々木教道)
前野    お聞きしていると日蓮さんというのは厳しい人で、「念仏とか禅ばっかりしてちゃダメだぞ!」と、怖い人のような印象を受けるのですが、そうなんですか?    優しいところもあるのでしょうか?

佐々木    めっちゃ優しいですよ(笑)。僕ら弟子に対しては厳しいですし、本当に求めている人には説かなければいけないので方便として厳しい部分もあったと思います。でもその根底部分には慈悲深い気持ちがあります。いろいろな方に宛てたお手紙が残っていますが、本当に細やかな心を持って、民衆に接されていることがわかります。
    念仏や禅の宗派を否定されたというのは、四箇格言(しかかくげん)といいますけど、今のありかたはどうなんだ、と常に疑問を持たれていて、法華経を含め、もっともっと仏教の原点に戻るべきではないか、と常に率直に発信されていたのかなと思いますね。今の僕らも日蓮上人から怒られる対象かもしれません。

■今ここで菩薩になり、今ここで社会を変えていく

安藤    授記というのは全ての人が仏になれるという未来への予言ですけど、仏になる、菩薩になるというのは亡くなった後ではなく、生きている間に、まさに今ここで実現していくという教えで間違いないでしょうか?

佐々木    その通りです。亡くなってから仏様になるのではなく、私たちが今ここで菩薩になり、仏になるというのが大事なポイントです。菩薩をまず目指して、菩薩の実践をすることで一段階段を登って仏になる。私たちが今ここで仏になることを成仏というのだと思っています。

大場    僕らには菩薩も仏も内在されていて、菩薩バージョンのときもあれば仏バージョンのときもある。それがいわゆる諸行無常です。教道さんが先ほど言ったように、僕らはこの10個の世界(十界)を行ったり来たりしています。地獄のような心を持って、地獄のような行いをしてしまう瞬間もあれば、たとえば朝のお勤めで、国家の安穏や皆様の幸せを願うときには、たぶん心は菩薩になっていると思います。
    菩薩の状態イコール成仏ではないんですけど、菩薩も仏も僕たちには内在しているということだと思います。

安藤    私たちが菩薩であるということが、冒頭で仰っていただいたコンサートやバーベキューの実践につながっていっているということでしょうか?

大場    僕や教道さんがやっているまちづくりは、まさに日蓮宗の特徴かなと思います。
    よく自他の与楽抜苦(よらくばっく)をするのがお坊さんだと言われますけど、日蓮宗の教えの場合、私とか他者だけではなく、社会の与楽抜苦も目指すんです。今風に言うんだったら「社会のウェルビーイングを目指す」、それが法華経の重要な要素ではないかなと思っています。
    先ほど教道さんが立正安国という言葉を使われましたけど、日蓮上人は「国」という文字をしばしば使っています。それゆえに国家主義とかナショナリズムに利用されていた歴史があるのですけども、日蓮上人が使ったのは「国」ではなく「囻」(くにがまえの中に民)だったんですよ。「囻」というのは国家という意味ではなく、人々が住む社会なんですよね。

前野    コミュニティですね。

大場    そうです。ですから僕たちも国に対する活動ではなく、「囻」の認識で今ここに住んでいる人々の地域に関する活動をしています。
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地域の方々とともに
(写真提供=大場唯央)
■日本の芸能と法華経

安藤    ところで、日本の芸能や文学表現って法華経と切り離せないところがあると思います。たとえばいま歌舞伎座では『日蓮』を上演していますし【★注】、宮沢賢治は法華経に深く心を寄せて、その教えを血肉化したような童話を次々と書いていきました。なぜ芸術家や文学者たちが日蓮の生き方や法華経のあり方に惹かれるのか、何かお考えになっていることがあったら少しお聞かせいただけるとありがたいのですが、いかがでしょうか。

【★注】「六月大歌舞伎」第三部『日蓮』    2021年6月3日から28日までの公演

佐々木    法華経というのは法華七喩(ほっけしちゆ)という7つのたとえが内在していまして、それが非常にドラマティックであるのが一因かなと思うのと、それと同時に、妙法蓮華経の「妙」というのが非常に形になりづらく捉えづらく、本当に言わんとしていることはその先の先にあるのだけれども、それをなかなか具現化できないからこそ、芸術家たちがなんとかそれを表現していこうとされているのかなと思います。
    りんごを食べたことのない人にりんごの味を伝えるのは難しいじゃないですか。「赤くて酸っぱくてシャキッとしてるんだよ」と言っても、それでどれくらい伝わるか。伝えたいことが素晴らしいがゆえに、なんとかして伝えたい。その思いがさまざまな表現、あるいは作品になっているのではないかと思います。


(5)仏教と一神教は何が違うのか


■仏教は「如是我聞」から始まる

安藤    日蓮の教えは出家だけではなく、在家の運動としても広がっていきましたよね。そういう意味で日蓮上人の教えというのはすごく裾野が広いと思うのですけども、お寺の日蓮の教えと在家の日蓮の教えは同じなのでしょうか?    違うのでしょうか?

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安藤礼二先生
(撮影:横関一浩)
大場    僕が思うに、在家仏教の広がりというのはキリスト教の影響が大きいのではないかと思います。簡単にいうと、仏教を一神教のように扱うと、在家の方たちの「日蓮さんが絶対だ」という捉え方になっていくと思うんです。
    でも本来、日蓮宗の中では、お釈迦様が仏様であって、日蓮上人は法華経を広めてくれた方という位置付けです。仏教って「如是我聞(にょぜがもん)」からお経が始まるんですね。「私はお釈迦様の教えをこう聞いたよ」と。
    でも一神教だと「神が言った」なんですよ。一神教では、神の言葉は絶対ですけど、仏教は「私はこう聞いた」という一人ひとりが主人公なので一人ひとりに教えがあっていいんです。
    法華経を一神教的に理解してしまうと、法華経が絶対だ、日蓮上人が言ったことが絶対だ、ということになっていくんですよね。そもそも仏教というのはどういう教えなのかという基本を理解した上で法華経を読むのと、そうでないのとでは違うんじゃないかなと思います。南無妙法蓮華経という言葉は一緒だけれども、在家の方々と僕らのあり方が違うというのは大きいのではないかなと思います。
    付け加えると、僕は一神教が悪いと言っているわけではなくて、その土地に即した宗教があると思うんです。
    たとえば自然が猛威を奮っていような過酷な環境のところなんかであれば、人々が結束するために一神教のような宗教でコミュニティを強くして自然を克服していくというようなあり方が適しているのだろうと思います。そもそも仏教と一神教は考え方が違うというところをご理解いただければと思います。

佐々木    仏教の対機説法というのが仏教を複雑にしている部分でもあり、仏教の魅力的な部分でもあると思います。
    もう一つ、仏教と一神教で大きく異なるのは、仏教は仏になることを目指す教えであるのに対して、一神教では自分が神様になるというイメージはまったくないという点ですね。自分も仏になれる可能性がある。なれる可能性があるならば、もっともっと人生において研鑽しなくてはいけないと思える。深みがあるんです。

安藤    貴重なお話をありがとうございます。気になっていたことを率直に聞いてしまいまして、本当に申し訳ございません(笑)。

■仏教カレー説

大場    カレーなんですよ。仏教はカレーと同じなんです。
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笑顔が魅力的な大場唯央さん
(写真提供=大場唯央)
佐々木    その心は。

大場    カレーって世界各地にあるじゃないですか。インドのカレー、スリランカのカレー、タイのカレー、日本のカレーも独自の発展をしていますけど、どれもカレーなんですよ。仏教も同じで、もともとのインドの仏教、東南アジアでいま栄えている仏教、今の日本の仏教ってそれぞれ違うんですよね。でも一つの「仏教」という概念で理解されている。形は多様なんだけど、仏教は仏教なんです。
    日本のカレーはカレーじゃないとは言われないし、インドのカレーじゃないとカレーとして許されないというわけでもないじゃないですか。

佐々木    そういう意味でも、この日本のこの地域で愛される仏教のあり方を作っていきたいと思いますね。

安藤    ご当地カレーですね。

前野    一神教は作り方をちゃんと守って同じように作るマクドナルドのハンバーガーみたいな感じですか?

大場    レシピがあってそれを忠実に守るみたいな感じですね。ちなみにカレーの比喩は僕が発祥ではなくて、確か松山大耕(まつやまだいこう)さんが最初に言われていたたとえです。

■南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経

前野    僕は子どもの頃から、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏もどっちも呪文みたいなものだと思っていたのですけど、全然意味は違うのでしょうか?
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前野隆司先生
(撮影=横関一浩)
佐々木    南無妙法蓮華経を唱えていることで、仏になるときまでそのご縁を保ち続けることを題目受持(だいもくじゅじ)といいます。妙法蓮華経という教えは難しくてなかなかわかりづらいけれども、受持しないで縁を切ってしまうと目標がわからなくなってしまいます。ですから、僕らが大事にするのは法華経なんだということを意識して持ち続けるということがとても大切です。

大場    法華経の功徳を南無妙法蓮華経という言葉で包んで、それを受持するというのは餃子と一緒です。南無妙法蓮華経という言葉が皮で、中身が法華経。
    日蓮上人は、南無妙法蓮華経を身口意で唱えなさいと仰っています。口でお題目をただ唱えればいいわけではなくて、今でもお釈迦様が法を説いていて、お釈迦様がいつも見ている、そして誰もが成仏するのだというお題目の心をちゃんと受け止める。そして身体で、活動として表していかなければいけない。僕のやっているまちづくりの活動は、活動としての南無妙法蓮華経のつもりだし、お坊さんが被災地に行って活動するのも行いとしての南無妙法蓮華経だと思います。
    仏教は基本的に人に依らず法に依れというのが大原則なので、南無釈迦牟尼仏じゃなくて、南無妙法蓮華経、真理に依れ、教えに依れということになります。
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(写真提供=大場唯央)

(6)平等思想が法華経の要


■揺り戻しとしての日蓮宗

──法華経は誰でも成仏できる教えであるというお話でしたが、他の宗派、経典だとそうではないのですか?

大場    ちょっと長くなってしまいそうですが順に説明しますと、まずお釈迦様が亡くなられたときに、人々はお釈迦様のご遺骨を安置するストゥーパという仏塔を建て、それを礼拝する信仰が生まれました。だけどストゥーパはお釈迦様と違って法を説いてくれません。それで「だったら法を説いてくれる別の仏を大事にしよう」という流れが出てきたり、お布施も仏教教団ではなくストゥーパのほうに集まるようになってきたために、残されたお坊さんたちは仏教教団の存続に強い危機感を覚えるようになりました。
    そこでできたのが阿羅漢という制度です。阿羅漢にお布施をすると、お釈迦様にお布施するのと同等の功徳があるというシステムを発明したんです。
    この阿羅漢というシステム自体は素晴らしく、このおかげで仏教教団は存続し続けられるようになりました。阿羅漢という制度がなかったら、今の我々もいません。
    しかしですね、その後に一部の阿羅漢が、「お布施をいただけて、教団も安定している。もうこのままで十分だ」と安住するようになりました。もっと修行を積めば成仏できるのに、阿羅漢たちは成仏を目指さなくなった。そこで仏教教団側がついに切れて「阿羅漢は成仏できない」というお経を出しました。
    それが維摩経です。そのときに、仏教の歴史上初めて、成仏できない人が生まれました。
    そういう流れを経て、「でも仏教ってそもそもみんな成仏できるんだったよね。ストゥーパを信仰するのもいいけど、お釈迦様は常に法を説いているから、ちゃんと原点に戻りましょうよ」という考えのもと成立したのが法華経です。
    ですから、法華経だけがみんな成仏する教えであるのではなく、そもそもみんな成仏できるのに、成仏できなくしてしまったことの揺り戻しが法華経だというわけです。

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お話をされる大場唯央さん
(写真提供=大場唯央)
──法華経以外のお経についてはどう捉えていますか。

大場    日蓮上人は「法華経をなしにして他のお経を大事にするというのはまずいよ」と仰いました。法華経があるからこそ、他のお経も活きるのであって、法華経なしで他のお経だけを重んじると、おそらく日蓮上人に怒られるんじゃないかなと思います。

■インドで仏教が信仰されない理由

──日本や東南アジアで発展した仏教が、なぜ仏教発祥の地であるインドではあまり信仰されていないのでしょうか。インドでは大半がヒンズー教徒で、仏教徒は1%未満だそうですが。

大場    カースト制度があるからだと思いますよ。仏教とカーストっていうのは相入れないんです。人としての価値は生まれによるものではなくて、行いによるものだという思想が仏教の根本にあるので、カーストを受け入れた仏教はもはや仏教じゃないだろうという気がします。

佐々木    カーストのあるインドで平等を説く仏教が生まれたというのが奇跡的というか、すごいことだなと、インドに行くと特に思います。ここでお釈迦様は平等を説かれたのか、と。

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インドで仲間と共に

(写真提供=佐々木教道)


前野    でも、士農工商という身分制度があった時代の日本でも仏教は広まっていましたよね。

大場    江戸時代に爆発的に仏教寺院の数が増えたのは、お寺が身元保証(戸籍管理)の役目を担うことになったからです。その当時、お寺はいわゆる士農工商に入らない人たちも檀家にすることによって、その人たちの身元を保証していました。表向き士農工商は守るのだけれども、士農工商があった上で、お寺が存続することによって、いわゆる士農工商以外の人たちもきっちり救ってきた。そういう歴史はあると思います。またカーストは生まれによって決まるものですが、士農工商は、もちろん基準は生まれにありましたが、行いによって選べていたみたいですし。

安藤    浄土宗や真宗、時宗ですと、差別されている人も平等、逆に差別されているがゆえに仏に近いんだと、そのような教えになっていきますよね。真の意味での平等は、多様であることと両立するんだろう、逆にそうでなければならないだろうという感じがすごくしています。すべて等しいから平等なのではなくて、固有のかけがえのない差異があるからこそ、平等なんだ。そのような教えに通じてくるのかなという気がするのですが、いかがでしょうか。

大場    そうですね。竜女成仏の話ともリンクすると思います。あれも、竜女はそのままの姿で本当は成仏しているのだけれども、「竜女の成仏なんてありえない」という価値観を持っている聴衆を納得させるために、あえて女という形を男という形に変えて成仏した話にしたのだと思います。
「竜女が男性に変わって成仏するんだったら、女性の成仏じゃないじゃん」と言われるところですけど、そうやって竜女の成仏を説いているというのは、先ほどの士農工商というのを受け入れながらもすべての人を救っていたところと僕の中ではリンクします。本当の仏教だったら「竜女も成仏します、はい終わり」なんですけども、それだと理解されないから、竜女が一回男に変わって成仏していくという表現にする。現実世界とうまくやっていくために、多少妥協してでもみんなを納得させるほう選んだのかなと僕は感じています。


(7)お寺は過去と現在と未来をつなぐ


■お寺には過去、現在、未来をつなぐ使命がある

──生きている人の数は、今まで死んでいった人の数と比べるとかなり少なく、いわばマイノリティであると思うのですが、私たちが生きている意味とは一体何なのでしょうか。

佐々木    お寺には数多くの方々が眠られています。その方々があって今がある。僕らの知らない数多くの方々が作ってくださった今であり、この地域であり、お寺であるということを感謝して受け取って、また次の世代につなげていくことが大切だと思います。
    僕らが生きている今というのはほんの一瞬で短い時間かもしれませんが、だからこそ尊くて、だからこそ過去があり現在があり未来がある。そのつながりをきちんと考えた上で、今僕らは今を大切に生きなければいけないと思います。

大場    久遠の命を意識すると、また感じ方は変わるのかなと思いますね。法華経の中でお釈迦様は久遠の仏だと言われています。お釈迦様の肉体は滅しても、常にここで法を説いているのだと。お釈迦様を久遠たらしめているのが、それを語り継ぐ人やサンガなんですよね。
    僕は、お亡くなりになった方の命を久遠の命にしていくのがお寺の使命なんだろうと思います。お寺には、亡くなった方の記録と記憶が蓄積されているんですよね。過去帳というものがあって、亡くなられた方のお名前や戒名がすべて書かれて残っています。僕のいる大慶寺であれば江戸時代に火事があったので、それ以降になりますけど。お寺には亡くなった方を、亡くなったことにしない使命があるのではないかと最近思ったりします。

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長い歴史を持つ大慶寺
(写真提供=大場唯央)
佐々木    僕も通夜や葬儀のときに、この今この場所が相続をする場所なのだという話をします。形あるもの、目に見えるものを受け継ぐことが相続のイメージですけど、形にならないもの、目に見えないものも受け継がなければいけないと思います。そういうものは大事に受け継がないと残せないんですよね。
過去のものをいろんな形でアーカイブしたり、次の世代に伝わるまで守っていくということが、お寺の一つの役目だと思いますね。

■一緒に地域を変えていきましょう

前野    今日も楽しかったですね。佐々木さんと大場さんがとても魅力的で、この魅力も日蓮宗だからなのだろうなと感じました。僕がほろっとしたのは、佐々木さんの「これまでは自分勝手だった」と思って僧侶になろうと思ったお話と、大場さんの地域のために目覚めたときの力強いお話です。日蓮さんが強さと優しさを秘めた人だったということが統一的に感じられました。
    お二人とも本当に魅力的ですよね。面白そうに笑っているかと思ったら、言うべきときなるとすごい気合いが入って、自分流をイキイキと実践されていて格好いいなと思いました。50年後にお二人がどんな感じになっているのかが楽しみです。またお会いしたいです。

安藤    私もとても勉強になりました。実践が大事である、これが日蓮上人の教えだとわかりました。先ほど、お寺は過去と現在と未来をつないでいく場所だとご説明いただきましたけど、前野先生や私のいる大学も、本来であればそうした機能を果たす機関だったと思います。
    でも現在の大学は地域からも切り離されてしまっていますし、なかなか大学だけでは果たし得ないところがあるんですよね。ですから、私が外側からあれこれ言うのも問題があるかとは思いますが、お寺という場所が、本来は大学がなさなければならない機能を、現在では唯一果たそうとしている場所である。そう言うこともできますし、それ以外にも、まださまざまな可能性を秘めているのではないかと感じました。

佐々木    今日は長時間にわたりありがとうございました。自分としてもなぜ日蓮宗なのかを確認できた時間でした。お寺はこれから地域の中で大事な役割を担っていけると僕は思いますし、その可能性は無限にあると思っています。昔はお坊さんになりたくなかったのに、今は天職だと思って楽しく活動しています。こんなに皆さんとつながって楽しいことはないなと思っています。そこに皆さんがいるからこそ、僕たちは頑張れます。もし、外から見ているだけではなく、皆さんが地域を変えていきたいと思ったときに、お寺と手を組んでみようというようなことを考えてくださる方が一人でも増えたら嬉しく思います。
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地域の方と共に
(写真提供=佐々木教道)
大場    今日の僕の発言は、日蓮宗オフィシャルの発言ではなくて、僕の如是我聞であるということをご理解いただければと、最後に保険として言っておきます(笑)。
    教道さんと同じく、僕も熱意を持ってやっていますけれども、一人では実現し得ないことのほうが多いので、仲間が必要です。お寺という場にはさまざまな可能性があると思います。でも可能性って、あるだけだと可能性で終わっちゃうので、できることをやって可能性を実現していきたいと思っています。
    皆さんの地域にもいいお寺がたくさんあると思いますので、そういう人たちと手を組んで、ぜひいろいろな活動を一緒にしていいただけたらと思います。今日はありがとうございました。

前野    ありがとうございました。今回もいい回でしたね。次回は浄土宗の井上広法さん(栃木県光琳寺)と、大河内大博さん(應典院)をお迎えしてお送りします。まだまだ続きますのでお楽しみに。

(了)



2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年6月21日    オンラインで開催
構成:中田亜希