横田南嶺(臨済宗円覚寺派管長)
藤田一照(曹洞宗禅僧)


2人の「発心」がどのようなものだったか、「これまでの仏教」を通しての修行、そして「これからの仏教」の展望を伺った2021年の第1回。そしてこの2022年の第2回対談では、「現代における坐禅の意義はどこにあるのか」をテーマに、「釈尊の樹下の打坐、達磨の面壁、道元の只管打坐と連綿と伝わってきた幽邃な坐禅の世界を二人で縦横に語ってみたいと思います。」という藤田一照師の言葉を入り口にして、「坐禅の探求に生涯をささげるのみなのであります。」という横田南嶺老師と、坐禅の本質と今日性についてお2人にお話をいただいた。全6回でお送りする最終回。


第6回    坐禅の意義


■メタバースでは満たされないもの

藤田    坐禅の意義の話なども、していきたいですね。

横田    はい、意義ですね。最初に話しましたように、私は今回の対談のお知らせに「そんなこと考えたことない、坐禅して死ぬだけだ」なんて書きましたが、そのあと考えましてね。というのは、最近なるほどと思ったことがありまして。
    花園大学の卒業生に、ソフトバンクの社長の宮川潤一さんという方がおられます。そこで、大学創立150周年の記念に公開対談をしました。そのとき、まず宮川さんが「これからの世界は、メタバースがどんどん進んでいくだろう」と指摘され、そこに禅がどう関わっていくのかということで、私が「メタバースでごはんを食べたら、おなか膨れますか」と聞きました。そうすると宮川さんが「いや、メタバースは仮想空間なので、そこでごはんを食べても実際のおなか膨れません」と。「では、メタバースでトイレに行きますか」と聞いたら、「いや、行きません」と。さらに「それでは、メタバースでは自分の足で歩きますか」と聞いたら、「それはない」とのお答え。それで私は、「禅はそれなんです」と言いました。
    自分でごはんを食べ、自分で大便や小便を出し、自分の体はこの2本の足で動かしていく。屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)が禅の本質だと臨済禅師は言われていますからね。だからメタバースでは絶対に満たされないのが、この体がここにいて、この体で生きているという、この事実です。常にここに戻ってくるしかしょうがない。それで、この心身を調えるのが坐禅であると。
    宮川さんはメタバースをやればやるほど迷う、なかには狂う人がこれから増えてくると言われました。そして、そういうときのために、禅というものがもっと大きな役割になっていくだろうと。禅はこの体が勝負です。この体一つで、別に仏さまもいらなければ、経典もいらなければ、建物もいらない。この体でごはんを食べて、食べたものを排せつして、歩いて、坐って、これが禅でありますから、禅はこれから大いに大事だという話で終わりました。
    AIでもメタバースでも満たされないものが残るはずなんですよね。それが、この身体性です。この身体が、この地面の上にいることを実感して、大地に腰を立てて坐る。ですからこれからは、なお坐禅の出番だと思いますね。

藤田    そうですね。僕は、現代だけではなく、ずっと人間が人間である限りは、坐禅は意義があると思っています。坐禅なんかしている動物は人間だけだと思うんです。自分の死というものを自覚することができる力を持った人間だからこそ坐禅が必要なんですね。それをブッダがわれわれのために見つけてくれた。ブッダは自分の問題に取り組んだだけで、別にわれわれのためというわけじゃなかったかもしれませんが、結果的にはわれわれを代表して坐禅を見つけてくれました。人間だから坐禅が必要だということが、2600年前のインドのブッダにおいて証明されたのではないかと思っています。
    特に今はメタバースとかAIのように脳や意識が作り出しているものの中に、僕らは飲み込まれていくような傾向がありますよね。だから余計に、それ以前の原点的なところ、生身の身体が強調される必要がある。

横田    そうです、そうです。

藤田    意識の産物に飲み込まれてしまうと、本来の家を見失ってしまう。ここでの家とは本来の原点とか、homeですよ。それを僕は「存在の故郷」と言っています。存在の故郷を見失い、精神的なホームレス状態になって、寄る辺ないところをうろうろしているのが僕らのあり方で、人間はそうなりがちな性質をもともと持っていますが、この傾向はますます強まっていくと思いますよ。

横田    はい、強くなりますね。

藤田    だから、その治療と言ったらおかしいですけど、カウンターバランスっていうんですかね。人間は放っておいてもそちらに行ってしまう癖があるから、坐禅はそれを中和するものとして必要なんです。奇しくも坐禅の特徴として「家に帰って、穏やかに坐る」という意味の帰家穏坐(きけおんざ)という四字熟語あります。家があれば安心して外に出て行けるけど、家がないままで外をうろうろしていたら人間としては非常に危ない状態で、不健全な感じがします。だけど、それは言葉でいくら説いてもだめで、身体性に根ざした実地の営みとしてやらないといけない。坐禅はまさにそういう行為です。

横田    なるほどね。

★6話_12.jpg 378.16 KB


■生命力の発現として坐禅する

藤田    「すべての人間の不幸は、部屋に一人で静かに坐っていられないことに由来している」というフランスの哲学者パスカルの言葉がありますが、すごい洞察だと思います。だけどこの言葉は、病気の診断をしているだけです。病因や原因を見抜いただけで、治療法は言及していない。
    この治療法にあたるのが、まさに部屋の中で静かにしていることを純粋に稽古する、坐禅ではないかと思います。ですから、パスカルの洞察に対する仏教側からの応答という形で、坐禅というのがあるのではないかと僕は思っています。
    メタバースの方向は人間としては死の方向じゃないかと思うんですよ。仏教は「人間は死ぬ」ということを強調して言います。でもそれは、しっかり生きるためには自分が死ぬ存在だという自覚が必要だという意味で言っているのであって、やはり仏教の焦点は、「この与えられた限りのある人生を、ちゃんと生きよう」という積極的なメッセージだと僕は思っています。
    だけど人間には死の方に向かう傾向があって、仏教でいう悪魔はマーラという死神ですから、そのマーラがいつもささやいているわけですよ。僕は死の方向とは、生き物としての人間を萎縮させ、衰弱させるような方向だと思っています。それは極端な言い方かもしれませんが、いろんな道具を発明して便利さを追求していく方向です。たとえば、歩かなくても移動できるとか、手足を使わなくても掃除ができる。それからスマホに何か聞いたらすぐ答えを教えてくれるので、今は記憶する必要もなくっていますね。
    そういうものを、僕らは「便利、便利」と言って歓迎し、拍手喝采します。でも、それらがなかったら何もできなくなるわけです。だから道具に頼る傾向は、道具を使う人を弱くしている、あるいは退化させていて、それは死の方向じゃないかと思うんですよ。
    その点、坐禅はそういう道具を一切使わないですよね。自分の五体と、周りにある空気と重力、それから音や光の感覚、さらに床や大地を使うだけなので、これらはどこに行ってもあります。

横田    ええ、そうですよね。

藤田    別に道具を使うことが悪いわけではないです。でも、そういうものにいっさい頼らないで、生きている素の自分にいったん立ち返って確認する。それは生の方向だと思います。今、死の方向と生の方向のバランスが悪くなりすぎています。悪魔の誘惑に乗って、近代化や現代化の名のもとにそういうものをどんどん作っているけど、人としての生命力はますます弱っているのではないでしょうか。

横田    ええ、ますます弱くなりますよね。

藤田    ですから、本来持っている生命力の発現として坐禅することが今の僕らには必要です。生きていることの原点、活き活きした生への方向性や、その大事さを坐禅で確認する。これからは、そのような文脈で坐禅を語る必要があるのではないでしょうか。

(了)


2022年7月2日、北鎌倉・円覚寺にて対談
構成:森竹ひろこ


第5回 探究への情熱の種をまく