〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
井上広法(栃木県光琳寺)
大河内大博(大阪府願生寺)



慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第4回は、浄土宗の井上広法さん(栃木県光琳寺)と大河内大博さん(大阪府願生寺)をお迎えしてお送りします。


(2)    お坊さんとして終末期医療に関わる


■檀家さんは裏切れない

前野    大河内さんはどういう経緯でお坊さんになられたのでしょうか?

大河内    小学6年生のとき、将来の夢を作文にして発表するという参観日がありました。私は「将来はサッカー選手になりたい」と書きました。本当はお坊さんになる以外に道はないと思っていたのですが、お坊さんになるとは絶対に書きたくなくて。でも「サッカー選手」というのを母親が聞いてどう思うだろうか……と嫌々その参観日を迎えたのを覚えています。

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幼い頃の大河内さん(左端)(写真提供=大河内大博)
    私の場合は、気がついたら「お坊さんにならざるを得ない」と思っていたところがあります。私には9歳上と6歳上の姉がいて、ちょっと離れて私ができています。待望の跡取りであることは一目瞭然。そういう家族システムの中に最初から放り込まれて、最初から「お坊さんになりたくない」という選択肢すら持つことができませんでした。9歳上の姉が作文に「私は弟の人生のようにはなりたくない。将来を決められるのは嫌だ」というようなことを書いていたのをたまたま読んで、一時期、姉との関係が悪くなりました(笑)。
    父から「将来は跡を継いでお坊さんになるんだぞ」と言われたことは一切ありませんでしたが、その一方で9歳のときから夏休みは父の後をついて檀家さんの家を回っていました。気分的には「回らされていた」のですが、行ってみると檀家さんが非常に喜んでくれる。「ああ、これで安心や。最後はちゃんと送ってや」と、そういうふうに幼少期から檀家さんにずっと言われてきました。
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小さい頃からお檀家さんに期待されていた(写真提供=大河内大博)
    親にはどんなに反発できても檀家さんのその言葉にはどうしても反発することができない。自分はもうお坊さんにならざるを得ないのではないか、この檀家さんの期待を裏切るだけのものを自分は持ち得るのか、とずっと問われているような気持ちでした。ですから「サッカー選手になりたい」と書きつつも、そんなことはあり得ないだろうと思っていたのが実際です。
「お寺に生まれてよかった」と思えたり、積極的にお坊さんになりたいと思えるようになったのは、10代後半です。ただ、お坊さんになるにしても檀家さんが見ている社会の苦難を理解できるお坊さんになりたいと思ったので、大学を出てすぐにお坊さんになるのではなく、社会人経験をして、社会の仕組みや社会の不条理、社会の中でお金を稼ぐことの大変さを知ってからにしようと思いました。檀家さんは社会でお金を稼いで、その中の一部をお寺に寄付してくださる、そのあたりをちゃんと自分でわかった上でお坊さんになりたいと思いました。


■ビハーラとの出会い

大河内    それで親とも相談をして、銀行員を目指して東京の普通の大学に進学することにしました。
    と同時に、当時大学の夏休みに3週間の行を何回か行えば僧籍が取れるという浄土宗のシステムがありましたので、それを利用して大学に行きながらもお坊さんの資格を卒業までに取ることを父と約束しました。
    それで大学一年生の夏休みに初めて3週間の行に入って仏教の基礎の基礎の勉強にがっつり取り組んだのですが、そのときに感じたのが「これは到底、二足の草鞋で太刀打ちできる相手ではない」ということでした。大学を出て社会人の経験を積んで、親が老いてきたらお寺に戻ってお坊さんになればいいと簡単に考えていたけれども、いやいやいや仏教はそんなに甘っちょろい相手ではない、とようやく気づいたのです。
    私は「大学をやめて佛教大学に入り直したほうがいいのではないか」と悩み始めます。
    そんな最中、大学でたまたま生命政治論、いわゆる生命倫理、臓器移植とか生殖技術とか、そういったものの倫理的な課題をどう政治政策に落としていくかという授業に出会ったことが、私の人生を方向づける大きなきっかけとなりました。
    終末期のがん患者さんのケアをするホスピスは有名ですが、お坊さんが終末期のがん患者さんのケアをするビハーラと言われるホスピスの仏教版があること、それを実践している病院が新潟県にあることを私はその授業で初めて知りました。自分が大学に来たのはこの先生と出会うためだったのかもしれないと思い、佛教大学に移るのはやめて、その先生についてしっかり勉強することにしました。
    大学を出たらその道に行きたいと思ったので、周りが就職活動を始めた大学4年生の当初から新潟県のその病院に東京から毎月出向いて、安いホテルに1週間泊まって病院で勉強させていただき、東京に戻ってきて授業を受けるということを繰り返しました。
    その流れで大学卒業後は新潟に移り住み、それからもう約20年になります。病院でのカウンセリング、と言っていいかわかりませんけど、患者さんのところに伺う中に、私は自分の仏教者としてのアイデンティティを見出してきたような気がします。

井上    うちの先代である父も30、40年前からターミナルケアの活動(終末期病棟に出向いていって、その人のスピリチュアルペインなどのケアをするという活動)をしていました。宗派は違いますが栃木県の益子町に西明寺さんというお寺さんがありまして、そこに田中雅博(たなかがはく)さんという先生がいらっしゃいました。田中先生はお坊さんかつお医者さんで、お寺の境内に普門院(ふもんいん)という病院を作られた方です。
    田中先生自身も膵臓癌になられて、亡くなるまでのすべてがNHKのドキュメンタリーになったすごい方なのですが、うちの父はこの田中先生についてターミナルケアを実践していました。
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田中雅博先生(写真提供=井上広法)
(つづく)

2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年7月26日    オンラインで開催
構成:中田亜希

(1)お坊さんになったわけ
(3)お念仏で救われる