アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「解脱しかないと考えるのはネガティブなことではないのか?」です。

[Q]

    お釈迦様は生きることが苦であると教えられていますが、そうであるならば、人間の存在意義とは何なのかと、解脱以外にないのかと思ってしまいます。それだけが存在意義になってしまうのかと。生きているならば、喜びや楽しみがあるはずで、解脱しか存在意義が無いという考え方は、すごく不健康でネガティブな感じになってしまうのではないでしょうか?

[A]

■「わかっているつもり」という失敗


    お釈迦様は生きることは苦であるとおっしゃいました。
    それはお釈迦様が発見した悟りの智慧なんです。ということは、生きることが苦であると人間は気づかない。わからない。わかっているならば生きることに執着が無くなって、解脱に達しているはずなんです。私たちが解脱して無いということは、生きることは苦であるとわかっていないという証拠なんです。
    あなたの失敗は「わかっているつもり」というところです。わかっているつもり、と言うのは誰だってあります。あなただけが間違っているわけじゃなくてね。「そんなのはわかっているんだよ、仏教は」と言う人々は結構迷信へ行きますからね。わかっているのに。
    生きることは苦であるということは、智慧で発見しなくてはいけない真理です。だから私たちは、「ほんとかい、これは」というふうに挑戦するんです。生きることは苦であると言っているのは本当なのかと。

■「生きることは苦」を実験する

    昨日、地方から帰ってきたんです。空港でお土産を買おうかなと思っていたところへ、ある会社の人が私を見つけて「ちょっと話をしてもいいですか?」と言うので、時間はあるし「いいですよ」と言いました。
    その人は私の本に「生きることは苦である」と書いてあったことにびっくりして、「あ、なるほど、そういうことか」とわかったんだと。納得いきましたと。
    私はその本にこう書きました。「一旦呼吸してみてください。吐いて止めてみてください。一分、二分、止めてみたらどんな気持ちですか?    それから吸って、三分ぐらい息を止めてみてください。どんな気持ちですか?」そうすると、耐えられない苦しみが生まれる。これは肉体的な苦しみなんです。耐えたら死にます。だから、私たちは呼吸するたびに「生きよう、生きよう」とする。その時何を期待しているんですかね。耐えられない、死ぬ羽目になる苦しみを避けているだけでしょう、生まれた瞬間から。
    それってわからないでしょう、呼吸することが苦しみであると。あの実験をしなきゃ。どんなものも実験してみるとわかります。
    例えばご飯を食べるということ。お腹が空いているのにご飯を食べないでいてみてください。何でご飯を食べる気になったのか?    あの空腹感が耐え難いんですよ。あの苦しみが無かったら食べないんです。では、食べることをやめてみたらどうでしょうか?    一週間くらい。死にますね
    私たちは食べることにもすごい苦しみがあって、それを何とかごまかそうとしている。問題は、それって終わりがあるのかと?    終わりは無いでしょう。
    それで逆も実験するといいんです。おなかが空いて食べる。食べて、食べて、食べて……、ものすごくたくさん食べたらどうなる?    食べるのをやめなかったら死にますね。筋肉はもしかすると耐えられなくて、反撃として吐いちゃうかもしれません。もし筋肉が弱くて、吐くという反撃をしなかったら死にます。その人は、食べることがいかに苦しみを作るのかと経験するんです。
    呼吸は楽だと思っているでしょう?    ではやってみてください。十五分間深呼吸をしてみてください。どうなるのか?    倒れます。
    私たちは手を上げたり、どこかを掻いたりもするでしょう。何で?    苦しみがあるからなんです。
    面白いことは、それが無いと命が無いんです。だから生かしているパワーは「苦」なんです。神では無いんです。よくよく高いレベルから観ると、存在するのは「苦」だけなんです。だから「私、私」と言うのは、苦しみで「私」と言っているんです。それを〝発見〟した人は、「まあ、いいや、こんなのは」と執着を棄てるんです。

■執着という勘違い

    勘違いは〝苦しみ〟に執着することです。「生きてゆきたい」と思うことです。生きていて一体何を期待しているのか?    というと「食いたい、寝たい」そんな程度でしょう。どこかに旅行へ行きたいとか、散歩に行きたいというそんな程度のことしかやっていないでしょう。「生きていきたい。死にたくはない」と言いつつ死とは何なのかも調べていないし。
    「生きてゆきたいというけれど、あんたは何をしてるのか?」と言うと、毎日ワンパターンで生きているだけでしょう。それは苦しみをごまかすだけ。
    今、説明したのは肉体の苦しみだけです。それより恐ろしい苦しみは精神にあるんです。
悩み・落ち込み・プライドが傷ついたときの気持ち、どうですかね?    人に派手に侮辱されたら、その苦しみは何年も引きずるでしょう?    殴られてケガしても数週間もあれば治ってしまうから精神の苦しみはものすごく大きいんです。
    俗世間的にみると、苦もあって楽もありますが、仏教的なレベルでは「苦」です。だから一般的にみると、テレビを見るのも楽しい、美味しいご飯を食べるのも楽しい、幸せ。それは否定していません。まぁそんなもんですね、と。どういうことかと言うと、肉体と精神が今味わっている苦しみがサッと消えちゃう。でも、消えても新しい苦しみが生まれる。だから、苦しみが消えたことを楽しさと錯覚しているだけなのです。
    空腹感があって、その苦しみを消さなくちゃいけない。そこで、口に入れたものは、美味しく感じるんです。「ああ、美味しいものを食べられて私は幸せだ」と思うのは妄想です。それなら食べ続けてください。お腹がいっぱいになると同じ食べ物でも美味しくないんですよ。まずいんです。気持ち悪いんです。
    だから、なんで美味しく感じたのかと言うと、美味しく感じる間は空腹感が減っていくんです。苦が減る間は楽しいと人間が思うんです。それがみんなが言うところの「楽しさ」なんですね。
    音楽を聴いて楽しいと思うならば、じーっと聴いてみてください。ものすごく好きな曲を一曲、繰り返し繰り返し。エンドレスでじーっと聴いてみる。ものすごくうるさくて気持ち悪くなってくるんですよ。
    ちょっと疲れたりイライラしている時、好きな曲をちょびっと聞くと、苦しみが減る間は楽しく感じますね。座っている時も足を崩して「あ、楽だ」と。では崩したままでいてください。また苦しくなる。
    そういう実験をしない人にとっては「生きることは苦である」とはわからないんですね。生きることが苦であるならば、生きることに意味も無いんです。そんなにはしゃいで、そんな真剣に、死に物狂いで、生きよう、生きようとしているのは何なのか。それで、プラスアルファでさらに苦しみが生まれるだけ。生きようとして苦しみが増えるだけだから。で、答えは、「執着を棄てなさい。関わるなよ。放っておきなさい」

■放っておけない=煩悩

    放っておけないところは煩悩というんです。放っておいた人には煩悩がありません。
    俗世間の次元には、当然、喜怒哀楽はあります。一人ぼっちで、「ああ、寂しい」と孤独感があるところに友達ができたら「ああ、幸せ」と、そんな程度の孤独感に合わせるだけ。私は孤独感は無いので、誰かと話して仲良くなったというのは楽しくも何ともありません。孤独感がある人にとっては、すごく面白いでしょうけどね。電話かけるわ、メールするわ、あれやこれやと。
    みんなツイッターやフェイスブックに依存しているでしょう。私には人間の苦しみしか見えないんです。だからそういうものには依存しません。
    だから、生きることは苦であるというのは、否定的でもネガティブでも無いんです。生きることに価値があると思いたいという前提で考えるとすごく否定的に見えるだけです。
    客観的に科学者が観察するように観ると、価値が入れられません。ただ〝違い〟を観るだけ。

■「発見」の面白さはポジティブ・ネガティブを超える

《長老は、生きることに価値を置くのは良くないという見解をお持ちで……》

    良い/良くない、というレベルではなくて、「価値があるのか?」と調べてみるんです。私が「生きることは苦だ」と言ったら「ホントなのかい?」なんですね。そこが必要なんです。わたしの話に乗せられちゃうと、ただ操られただけで、わかったことにはなりません。
    私たちが強烈にしゃべるのは、修行を始めるとみんな「やりたくない」という怠けが割り込んで来るんです。そこで私たちは強烈に言って、やる気を引き起こす。時々、私の言葉が強すぎちゃって、元々あったやる気が無くなっちゃうことがありますけど(笑)
    それ以外は、私の言葉をそのまま鵜呑みにしなくてもいいんです。「本当かい?」というところが無いと自分で発見しないでしょう。私は「生きることには何の価値も無い」と、区別世界で語っているんです。
    あなたも、その区別能力をつけなくちゃいけないんだからね。それでご自分が「本当かい、これは?」と自分で調べていくと、ネガティブになるとかポジティブになるとかは無いでしょうと、そういう発見が面白くなっていくんです。
    幸せでも不幸でもどちらでも無く、発見自体が面白いんです。感動するんです。
    最終的には、これも比較して言いますが、無知が暗いんです。苦しいんです。だから発見すると楽しみが生まれてくるんです。世界でいつでもあることでしょう。何かを発見して楽しくなっちゃう。子供が算数をやってみて、答えがわかったら楽しいでしょう。
    だからできないこと、知らないことが人間にとって苦しみなんです。仏教でも言いますよ「無明」だと。すべての問題の原因は無明……つまり知らないことです。
    「本当かい?」という言葉を使って調べていくと、無明がどんどん減っていく。その分楽しみが生まれてくる。これはネガティブ・ポジティブとかいう次元じゃないんです。



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