【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】
皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日は「忍耐」と「我慢」の違いについて、スマナサーラ長老が解説します。
[Q]
「忍耐」と「我慢」とは、どのように違うのでしょうか?
[A]
■我慢はストレスフル、忍耐はストレスレス
冬は外に出たら寒いですね。当然です。我慢する人はぶつぶつ文句を言いながら外を歩きます。早く暖かいところに逃げたい、今の状況から離れたい、というストレスを抱えているのです。忍耐は「冬の風が冷たいのは当然だ」と現実を認めるだけです。それで何のストレスも無く冬の道を歩くのです。我慢するというのは怒りの一種です。ですから、我慢するとストレスが溜まります。忍耐することにはストレスがありません。冬の道を寒さを感じながら歩いても、我慢した人には寒さの苦に加えて精神的な悩みも起きますが、忍耐する人の場合は冬の寒さに当たった苦だけで終わるのです。
■人は文化に合わせて言葉を使う
これは日本語の言葉の問題で、英語には「我慢」という言葉が無いように思います。文化によって言葉の使い方が変わります。例えば日本語でよく「ファイト! ファイト!」と言うでしょう。それは英語から借りた単語ですが、英語のFight(戦う、ケンカする)という意味ではありません。日本語では「頑張れ」というような柔らかい意味です。皆それぞれ自分の文化に合わせて言葉を使っているんですね。
■人格向上こそが「忍耐」の狙い
仏教用語で「忍耐しなさい」ということは、「世の中そんなに甘くない」という意味になりますが、それが日本語では「我慢しなさい」という単語に変わっているのです。しかし、我慢しなさいという場合は、「今、我慢したら後で楽になる」という話が出てきますから、それはロバの鼻先にニンジンをぶら下げることになってしまいます。仏教では、ご褒美というニンジンを見せるのではなく、「忍耐することは人格向上に欠かせない」という立場をとるのです。ですから、より良い人格を目指して、自分の短所を除くことを心がけて、苦労にめげず進むことが「忍耐」です。「今苦しんで頑張れば(我慢すれば)後で楽になる」というのは俗世間的な発想です。それはニンジンをチラつかせることであって、「忍耐」とは違うと言わざるを得ないのです。
ご褒美を目指して我慢すると問題が起きます。我慢したのに望んでいた結果を得られないこともあります。望んでいた結果にたどり着いても、大したことではないと不満を感じることもあります。仏教徒にとって、努力が望み通りの結果を出すか出さないかは大きな問題ではありません。忍耐によって自分自身が成長すること、それが確かな結果なのです。
■「我慢する」とは自我の正当化
仏教用語の忍耐(khanti、カンティ)と日本語の我慢というのは、ぴったり同じ意味ではないということだけは憶えておいてください。忍耐(カンティ)は聖者であるお釈迦様が考えた言葉ですから、間違いは全くありません。忍耐は常に必要です。何事も自我の期待する通りにはいきません。因果法則がありますから。常に冷静でいることが忍耐なのです。歳を取ることは因果法則であって、それを気にしないということが忍耐なのです。歳を取るのは嫌だ、体が衰えていくのは嫌だ、何とかならないのかと思う人は我慢しなくてはいけません。「我慢する」とは、自我の錯覚から起こる感情を正当化する働きで、その結果は苦です。
■出典 『それならブッダにきいてみよう:こころ編2』