ネルケ無方


来たる2021年12月4日と12月11日に、ネルケ無方師(禅僧)と前野隆司先生(慶應義塾大学大学院教授)によるオンラインセミナー「生と死を考える」が開催されます!

幼少の頃から生きることに絶望し、坐禅に出会って生への希望を見出したドイツ人の禅僧ネルケ無方師。7歳でお母様を亡くされたネルケ無方師は、幼い頃から「いずれ死ぬのに、なぜ生きなければならないのか」と疑問を持たれ、子ども時代から生きることに苦悩されてきました。お父様や学校の先生に相談しても答えをはぐらかされて解決には至らず、16歳に偶然出会ったお釈迦様の教えに救いの道を直感し、日本へと禅修行に旅立たれました。

ネルケ無方師の「生と死」への問題意識はどのようなものだったのでしょうか?   
オンラインセミナー当日のお話の導入にもなる、ネルケ無方師による「生と死」ついての探求を「オンラインセミナー開催記念特別コラム」としてご紹介します。今回のテーマは「母の死と自殺願望」です。


■母の死

    私自身が過去に出会った死についてお話しします。
    私は7歳のときに母を癌で亡くしました。母に乳癌が見つかったのは、おそらく母が36歳の頃のことだったと思います。乳房を取る手術をしたものの、癌は既にあちこちに転移していて、37歳で亡くなりました。
    母が亡くなったのは夏休みの最中でした。私は夏休みを叔母の家に預けられて過ごしていたのですが、あるとき叔母が私にこう言いました。
    「オラフ君、お母さんはもう帰ってこないよ」
    オラフは私が子供のころに呼ばれていた名前です。情けない話ですが、そのときの私は、母にもう二度と会えなくて悲しいとは思わず、どこに行ったんだろうとも思いませんでした。
    母は、癌が見つかるまでは病院に勤めていましたが、いつも疲れ果てて帰ってきました。私はどうやら、まったく空気の読めない子供だったらしく、母をいらいらさせて、うるさいと怒られることがよくありました。とりわけ、亡くなる1年ほど前からは、よほど痛みも強かったのでしょう、私が家の中で大きな音を出すだけで、母は「うるさい、出て行け!」と怒鳴っていました。
    そんなわけで、母の記憶といえば怒られた記憶しかないくらいです。
    ですから、「お母さんがもう帰ってこない」と言われたときは、悲しいというより「もう怒られなくて済むんだ」という気持ちが勝(まさ)っていたように思います。
    しかし、それでも、その時の感情には苛立ちに近いものもありました。
    母が亡くなって一番腹が立ったのは、叔母に「君は葬式に来なくていい」と言われたことです。
    「私はこれから葬式に行くけれど、君は残って留守番をしていなさい」
    「ぼくも行きたい」
    「いや、君はまだ子どもだから葬式に出なくてもいいんだよ」
    大人たちはみんな葬式に行くのに、子ども扱いされて自分だけ家に残されたことが7歳の私には許せませんでした。正直言って、母の死に関して一番印象に残っているのが、この腹立たしいやりとりです。

■なぜ生きるのか

    幼いころに母親を亡くしたので、学校が終わって家に帰っても誰もいませんでした。
    私は部屋の中でよく考えごとをするようになりました。どうせ死ぬのに、そもそもなんで生きなければならないのか。70歳、80歳まで生きられるかどうかはわからないし、死んだら終わりなのかどうかもわからないけれども、どうせ死ぬんだったら何歳まで生きようが一緒じゃないか。死んで終わりなら、早いうちに死んだほうが楽じゃないか、生きる意味はなんだろう。そのようなことを小学1、2年生のころから延々と考えていたものです。
    当時の私はまだ7、8歳ですから、なんでも知っているはずの父親に、生きる意味を聞いてみようと思いました。父はこう言いました。
    「私たちは何もないところからこの世に生まれたんだよ。無からこの世に生まれてしばらくのあいだ生きるんだ。いつ死ぬかはわからないし、いつかは死んでしまうけれども、その間は毎日毎日なるべく楽しい思いをするんだよ。これが人生だ。いつか死んだらまた無の状態がずっと続くから、今は毎日毎日楽しい思い出を積み上げるんだ。それが人生の目標だよ。人生はパーティーのようなものなんだ」
    私は父の言うことがまったくピンときませんでした。別のコラム「生死の境目はどこにあるのか」で述べたように、私にとっての人生は束になったトランプのカードを毎日毎日1枚ずつ出していくイメージだったからです(図3のB)。子どものときから私はこれがもう面倒くさくてしょうがなかったのです。なんでカードを1枚ずつ出さなきゃいけないんだろう、もう今の時点で全部放って、早く死んでしまいたい、そのほうが楽なのに、といつも思っていました。トランプのカードの束自体が、暑苦しくて重たくて嫌だったのです。
    しかし父にとっての人生は、トランプを捨てていくのではなく、積み上げていくことだったわけです(図3のA)。

図3.jpg 286.44 KB
    父はそれが楽しいことだと思っていました。父はおそらく積み上げたカードを最後に全部手放さなくてはいけないということを恐れていたのではないかと思います。今生きることは楽しいけれども、死んだらどうなるかわからない。下手をしたら自分がせっかく積み上げたこのカードを全部取られてしまう、だから死は怖い。
    私は父の答えを聞いてもあまり納得できませんでした。楽しいカードを積み上げていっても、死んで全部のカードを手放さなければならないのなら意味がない。そもそも自分には生きることが楽しいという実感がまったくない。
    どちらにしても納得できる答えではなかったからです。

■自殺願望

    私の父のように人生を積み上げ方式で捉える人もいれば、今が苦しい、むしろ死んだほうが楽じゃないか、こういう私のようなタイプの人も結構な数いるのではないかと思います。あるいは逆に、死にたいと思ったこともない、むしろいつまでも生きていたい、そういう人も中にはいると思います。人それぞれでしょう。
    私は割と若いときから、自殺したほうが楽なのではないかと考えていました。実際にリストカットなどの自殺未遂をしたことは一度もありませんが、頭の中ではずっと「死んだ方がいいのではないか」と考えていました。
    本気で死のうと思ったのなら、その時点で呼吸を止めればよかったのです。5分間ぐらい呼吸を止めれば、そこで死ねるわけですけれども、それはできませんでした。
    どんなに自殺したいと思っている人でも、自分で呼吸を止めることはできません。首より上でいくら死にたいと思っていても、首から下の体は生命欲で満たされているからです。私もそうでした。死にたいとか死んだほうがましじゃないかと思いながら、実際に死のうとはしませんでした。死のうと思えば明日でも明後日でも死ねるけれども、今日死んでしまったら、明日になって元に戻りたいと思っても戻れない。だから今は窮屈な思いをしているけれども、今日1日ぐらいは我慢してみよう、自殺はいつでもできる。死にたければ明日でも死ねる。そのように自分を誤魔化して、結局、今日まで生きてきたわけです。
    現在は死にたいという思いはあまりなく、いや、そういう思いは完全に消えたと言ってもいいくらいですが、若いときはそのような感じでした。
    日本だけで年間約3万人もの自殺者が出ていますが、自殺未遂の件数はその10倍にものぼると言われます。未遂にも至らず、私のようにただ頭の中でなんとなく死にたいと思っている人は、おそらくその50倍も100倍もいるでしょう。
    私が中学1年生のとき、先生がクラスのみんなに「自殺したいと思ったことのある人は手を挙げてください」と尋ねました。そのときに半分以上が手を挙げたのを覚えています。

──この続きは、オンラインセミナーでの講演をご期待ください!(編集部より)

※本記事は『僧侶が語る死の正体    死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話』(共著、サンガ、2016年)の第一章「生死の微積分」(ネルケ無方)より抜粋したものです。

<お知らせ>

ネルケ無方師×前野隆司先生「生と死を考える」
オンラインセミナー開催します!
UDB peatix (73).png 653.64 KB

クリスマスを迎えるこの時期に、仏教とキリスト教、そして宗教と科学を比較しながら「生と死」について一緒に考えてみませんか?    ネルケ無方師が語り、前野隆司先生とともに考える「生と死の世界」。全2回の連続オンライン講座でお届けします。

■第1回    仏教とキリスト教における生と死
〔講演〕ネルケ無方
〔日時〕2021年12月4日(土)13時30分〜

■第2回    宗教と科学における生と死
〔対談〕ネルケ無方×前野隆司
〔日時〕2021年12月11日(土)13時30分〜


★第1回(12/4)はネルケ無方師の単独講演、第2回(12/11)はネルケ無方師と前野隆司先生の対談講演です。〔オンラインzoomミーティング開催〕

【受講料】
①5,000円【全2回視聴チケット】*セット割
②3,000円【各回視聴のみ】

■主催    株式会社サンガ新社

★お申し込みは以下のPeatixから ↓


「生死の境目はどこにあるのか」
「日本人と道元禅師の死後観」