〔ナビゲーター〕
前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)
〔ゲスト〕
河口智賢(山梨県耕雲院)
倉島隆行(三重県四天王寺)
平間遊心
慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第7回は、曹洞宗の河口智賢さん(耕雲院)と倉島隆行さん(四天王寺)とスペシャルゲストに平間遊心さんをお迎えしてお送りします。
(2)体験して初めてわかる坐禅の魅力
■アパレル勤めから永平寺へ
前野 河口さんはどんな子ども時代だったのでしょうか?
河口 私は都留市にある耕雲院というお寺で生まれました。私で22代目、お寺としては630年の伝統があります。もともとは真言宗のお寺だったのが曹洞宗に変わって今に至っております。
長い伝統のある耕雲院(写真提供=河口智賢)
私も幼い頃からお寺で過ごすのが普通という環境で育ちました。私の場合は10歳で得度式を迎えました。そこで初めて頭を坊主にしたのですが、それまで普通の小学生として髪を伸ばしておりましたので、坊主にすることに抵抗があって「嫌だ!」と泣いたのをよく覚えています。
得度式が終わって学校に行くと、坊主にしたことに対して友達からいろいろ言われたり、「お前んちはお寺だからお葬式があったらうまい飯が食えていいよな」というようなニュアンスのことを言われたりしまして、そういうことをきかっけにだんだんとお寺に対する違和感を感じるようになっていきました。
その後、学生時代はスポーツにはまり、大学生になった頃には「お寺を継ぐ」という選択肢は完全に消えていました。当時の私は毎日渋谷にいるようなタイプで、アパレルで働いたりもしていましたので、まあこのままでいいかなと思っていたんです。
そんな矢先に祖父が亡くなったのですが、亡くなる直前に「あいつは大丈夫か」という言葉を残していったんです。「お寺を継ぎたくないなら継ぎたくないでもいけれども、じゃあいったいあいつは何をやりたいんだ」と。それを聞いて、確かにお寺は継ぎたくないけど、じゃあ自分がやりたいことって何だろう。ひとまず修行に行ってみて駄目だったらやめてもいいんじゃないかと思い、永平寺に修行に行かせていただきました。行ってみたら見事に修行にはまってしまいまして(笑)、永平寺では4年も過ごしました。そういう経緯を経て、今に至っております。
前野 得度式では髪を剃るのですね。でもその後はまた伸ばしてもいいのですか?
河口 はい、私はすぐに伸ばしました。
倉島 私も得度式のあとはまた普通の髪型に戻りました。得度式では剃って、普通に戻って、永平寺に修行に上がる時にまた剃るという感じです。河口さんは髪の毛をピンクにしたりとかしていましたよね(笑)。
河口 しかもかなり長かったですね(笑)。
■好きな人に教わると坐禅の魅力がわかる
前野 私も坐禅を何度かやったことがあるのですが、足は痛いしなかなかその良さにはまるという気持ちがわからずじまいなのですが、皆さんは坐禅にはまっているのですか? 失礼な質問ですみません。足が痛かったり、邪念が出てきたりしないのでしょうか? あるいはそれを無くすのが楽しいのでしょうかね?
倉島 そうですね、フランスやドイツではたとえばサラリーマンの方が、会社に行く前にちょっと坐禅をしてから行こうかな、とか、バカンスの期間ちょっとお寺に滞在して坐禅の修行をしようかなというふうに、けっこう日常生活に近い環境で坐禅を楽しまれていたのが印象的でした。
坐禅はリラックスした状態で行うと非常に味わい深いものでが、日本では警策(きょうさく)という棒で叩いたり、しびれを我慢させたりと厳しく初心者に接してしまう先生が多いので、「こんなに辛いならもう二度と坐るもんか」思われる方は多いのではないかと思います。
ですから最初にどういった先生に出会うかが、坐禅を好きになるか嫌いになるかを分けるのではないかと思いますね。何事においてもいい先生を見つけるのは重要です。
倉島さんが主催する座禅会(写真提供=倉島隆行)
前野 なるほど。ということは、最近は弱虫な人も多いので、優しく指導してくださる先生も増えてきているのでしょうか?
倉島 そうですね。指導者も昔みたいに厳しさ一辺倒ではなく、いろいろなタイプの方がいらっしゃいます。厳しく教える人に限って、実は坐禅が嫌いだったりするんですよね(笑)。そんなに坐禅が好きじゃないから、とりあえず厳しくやっておこうと。やっぱり好きな人に教えてもらうと、その良さがわかるのではないかと思います。
■永平寺での4年
前野 永平寺に4年というのは長いほうですか?
河口 長いほうですね。
前野 どういうところが楽しくてはまったのですか?
河口 永平寺には師匠の許可がないと、行くことも帰ることもできないのですが、私は師匠から「2年間は行ってこい」と言われました。途中で逃げ出すことはできるのですが、逃げ出すとやっぱりお檀家さんなどに合わせる顔がないので、途中でやめることはできないなと。
前野 え、ちょっと待ってください。逃げ出してもお寺に戻ることはできるのですか?
河口 できます。
前野 そうなんですね。面白い抜け道があるのですね。
河口 永平寺は鍵がかかってないので、門に入るも自由、帰るも自由なんです。ただ、一度出てしまうと二度と足を踏み入れることはできません。
前野 ああ、なるほど。
河口 私も最初は坐禅が嫌いでした。それは坐禅することが修行というか罰に近いような扱いをされていたからでもあります。たとえば、何かミスをしたときに「お前坐ってろ」と坐禅を組まされたりするんです。罰になるようなことを修行の目的とすることに対して自分の中で違和感がありました。
指導する側になってからも、最初は自分が受けてきたのと同じように厳しく指導をしていましたが、だんだん違うなと感じるようになって、さらに、自分が一人で坐る時間を持つようになってからは、「あれ、心のざわざわがなくなってきたな」とか、そういう気づきと向き合うことができるようになりました。それからはどんどんはまって好きになりましたね。
坐禅をする河口さん(写真提供=河口智賢)
前野 ざわざわがなくなる喜びによって何度もしたくなる。そんな感じなんですね。
河口 そうですね。これはなんなのだろうなと。最初は形から入ったわけですが、形を調えていくと、だんだん心の動く度合いが自然と減って、心も調っていくことに気づいていきました。最初はやらされている坐禅だったのが、自分からやる坐禅になって、いいほうに変わっていったように思います。
仕事などでもそうですよね。やらされているときよりも、主体的に取り組んでいるときのほうがやる気も起こるのではないかと思います。
坐禅指導を行う河口さん(写真提供=河口智賢)
前野 私の研究分野に「幸せの4つの因子」というものがあるのですが、そのうちの「やってみよう因子」ですね。やらされ感でやるのではなく、やってみようという主体性が高いほど幸せを感じるというものなのですが、それと一緒だなと思いました。
河口 そうですね。主体性を持ってやったときにこそ本質が見えてくるように思います。
■在家で修行し坐禅にはまる
前野 平間さんはお寺のご出身ではないのですよね?
平間 はい、東京の一般家庭の出身です。大学生の頃に仏教に初めて興味を持ったので、お二人から比べればだいぶ遅いスタートです。
前野 どうして一般家庭で育った平間さんがお坊さんになられたのですか?
平間 そうですね、大学生の頃、将来を考え始めるようになって「人生に指針となるような柱がほしいな」と思ったんです。キリスト教系の大学に通っていたので、宗教の授業でキリスト教については勉強していたのですが、若いうちに宗教的実践をしてみたいという思いがわいて、日本の中でアクセス可能なところをゼロから調べてみたら、曹洞宗の安泰寺に行き着きました。もともと曹洞宗と決めていたわけではなく、すべて見比べてみて曹洞宗とご縁を持たせていただいたという形です。そして20歳の頃に修行を始めました。
前野 たまたま曹洞宗だったのですね。
平間 そうですね。その当時の私には、お坊さんにならなくても修行を試せる場所が曹洞宗以外に見つけられなかった。それが一番の理由です。私は安泰寺に行き、まず在家者として2年間修行をしました。大学を休学して行っていたので、その後大学に戻って2年かけて卒業して、再び25歳で安泰寺に戻って出家し、さらに1年間修行を行いました。
安泰寺で合計3年間の修行をしてから永平寺に行かせていただいたので、永平寺の皆様には「なんでこんなに年を重ねてから」と思われたかもしれません。
前野 その年で行くのは遅めなのですね。その頃は普通に就職することは考えずにお坊さんになろうと思われていたのですか?
平間 2年間の休学ですと、卒業するときには新卒扱いになりますので、それを狙って2年間だけ修行しよう思っていたのですが、やってみたらはまってしまいました。河口さんと同じですね(笑)。
本当に坐禅というものの魅力をすごく感じたので、人生をかけてやってみたいなという気持ちになり、今に至ります。
■体験して初めてわかる坐禅の魅力
前野 平間さんはどういうところに坐禅の魅力を感じたのですか?
平間 坐禅の魅力を言葉にするのは非常に難しいところがあります。
坐禅の魅力に行き着くには、まずご本人が仏教の根本的なアイデアにどれだけ親和性を持って向き合えるかだと思います。今のこの社会だったり、その中での生き方についてまったく疑問を持っていなかったら、坐禅をしても何かが得られることはないように思います。何かを求めてそれを得て、どんどん成長して自己実現をする今の社会のビジョンの中でやっていける方はそれでいいと思うんです。すごくいいことだと思います。ただそこでつまずいてしまうというか、なにか違うなあという感覚を持った方が仏教的な思想や実践に目を向けて、そこで魅力を感じたならぜひ坐ってみてもらいたいと思います。
まさに主体性ですね。主体的にやってみることで楽しさがわかると思うので、やってみて実際に自分がわかるまでは、坐禅の魅力はわからないのではないかなと思うところはあります。
坐禅をする平間遊心さん(写真提供=平間遊心)
前野 なるほど。いくら質問してもわからないということなのですね。
平間 いや、そういうことではないんですけど(笑)。
前野 いやいや、やっぱり体験してわかるんですね。
(つづく)
(1)僕たちがお坊さんになったわけ
(3)坐禅と正法眼蔵