アルボムッレ・スマナサーラ

【スマナサーラ長老に聞いてみよう!】 

    皆さんからのさまざまな質問に、初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老がブッダの智慧で答えていくコーナーです。日々の生活にブッダの智慧を取り入れていきましょう。今日のテーマは「目的とは何か?」です。

[Q]

    人間社会でよく言われる「目的」ということ、例えば家族のため・子供のため・会社のため・国のためといった、「~のため」ということは、どのように成り立つのでしょうか?


[A]

■目的が現れる過程

    「目的」というのは、眼耳鼻舌身に情報が触れ、そして意識で概念を作り上げることで生まれます。仏教科学的には、その概念は成り立たないものです。眼に見えるもの(色)があるといっても、見えるものは実体としてあるわけではありません。ただ視覚で捉えられた情報が流れているだけです。物質といっても流れてゆく情報であって、固定した形があるわけではないのです。頭の中で自分勝手に画像という形を作っているに過ぎません。音にしても空気が振動するだけで、実際に音があるわけではありません。しかし、その空気の振動が耳に触れると、音という認識(聴覚)が生まれるのです。そこで次に頭の中で何を聞いたのかと概念を作るのです。

■認識から起きたアイデアが主観である

    そこで、私が見た・聞いた・嗅いだ・味わった・感じた中からアイデア(考え・見解・観念・意義)が生まれます。それを「目的」と言っているのです。その目的・アイデアが正しいと思って行動・行為を引き起こします。しかし、もともと目的・アイデアがあるわけではありません。幻覚なのです。ですから「家族のため」「国のため」というのは、ただのアイデアでしょう。勝手に作ったものです。事実に基づいたアイデアでは無く、正しいわけでもありません。「国のため」と言っても、国とは何ですか?    何を指して言っているのですか?    土地や地面のことですか、人のことですか、言語や生活や文化のことですか?    国のために死ぬとか、お国のために戦争に征くとか言っても、国という確固たる実体はどこにも無いのです。「国のため」とは勝手に作った主観(妄想)です。全てそうなのです。

■目的に執着が無ければ安らぎに至る

    もっと酷い例を出します。女性が子供を産んだら、お母さんが子供を育てるべきだと思われていますが、そんなこと誰が決めたのですか?    それも主観なのです。しかし、子供を産んだ女性は必死で子育てするのです。「我が子を育てなければ」「我が子のため」という主観・目的が無ければ、子育てはできません。そのようにして全ての生命・人間の営みは主観・目的から現れてくるのです。主観・目的は本来成り立ちません。ですから、そこから離れている人々は全く違うのです。主観・目的が無いことは悟っているという意味でもあります。その程度にしておきます。



■出典    『それならブッダにきいてみよう: ライフハック編2』
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