中村圭志(宗教研究者、翻訳家、昭和女子大学・上智大学非常勤講師)

ジャンルを問わず多くの人の心に刺さる作品には、普遍的なテーマが横たわっているものです。宗教学者であり、鋭い文化批評でも知られる中村圭志先生は、2023年に公開された是枝裕和監督・坂元裕二脚本の映画『怪物』に着目。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したこの話題作の背後に「宗教学的な構造」を発見し、すっかりハマってしまったそうです。大学の講義で学生たちも驚いた独自の読み解きを、『WEBサンガジャパン』にて連載。全六章(各章5回連載)のうちの第四章は、まさに宗教の主要テーマとなる“死と終末”がキーワードです。

第四章    死と終末のイニシエーション[1/5]


    前章では主人公の湊少年の告白と救いのプロセスについて根掘り葉掘り論じました。
    本章ではこれを受けて、告白シーンに続く暴風雨シーンから最終場面までの一連の展開について、その神話的な象徴構造を探っていきたいと思います。それらには転生や終末のモチーフや英雄神話のモチーフが多様な形で絡んでおり、全体として死を隠喩として含む通過儀礼ないしイニシエーションの様相を呈しています。
    まず手始めに、トロンボーンの多義的な象徴性から、読み解いてまいりましょう。

■トロンボーンと台風──ビッグランチへの突入

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イラスト:中村圭志
    前回論じたように、音楽室における管楽器(トロンボーンとホルン)のプオーッという吹き鳴らしは、言語的思考を超えた救済を暗示するものでした。伏見校長はそのような禅味のある悟りをもたらしたと思われ、それがストレートに湊に通じたのでした。
    しかし、管楽器の響きは音楽室のシーンだけで完結していません。これに続けて、湊が自転車で元気よく走るシーン、さらに風雨の中ポンチョを着た湊が依里の救出に駆けつけるシーンまで、同じ管楽器の音が響いています。
    どうやらこの管楽器、いわゆるラッパには、さらに多様な意味が含まれている気配があります。それはいかなるものでしょうか?
     【進軍ラッパ】プオーッが響き渡る間に、湊は依里の家まで駆け参じます。そして風呂で水責めにあっている依里を救い出します。湊はそれまでの受け身の人生から積極的に戦いに挑む人生へと転身しています。このことを考えれば、ラッパの音には進軍ラッパあるいは昔の戦で吹いた角笛や法螺貝のような意味が込められていると思われます。
    【癒しのパワー】他方、担任の保利先生の視点で描かれたパートⅡの該当部分では、まさしくこのラッパの音が保利の飛び降り自殺を食い止めています。間抜けな音なので、思わず聞き惚れた、という感じです。すでに述べたように、このブオーッは湊の思い煩いを吹き飛ばしたものですから、それと同様の作用が保利先生の場合にも起こったと思われますが、これはもはや禅味のレベルを超えて、神秘のパワーのようにも見えます。
    【天使のラッパ】そうした霊力のことを思えば、さらにもう一つ象徴性を高めて、これを終末のときに天使が吹くというラッパのなぞらえと捉えることも可能なのではないでしょうか。ここで思い出されるのは、湊と依里が暴風雨に対してビッグ(ク)ランチという一種の終末論的ビジョンを重ねているらしきことです。

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イラスト:中村圭志
    終末のラッパというと禍々(まがまが)しい感じがします。しかし、ここで理解しておくべきなのは、聖書の終末には、いわゆる「ノストラダムスの大予言」のような災害や神の裁きによる地獄堕ちというイメージが確かにある一方で、神の正義の実現、永遠の楽園としての神の国(天国)の始まりというイメージもまたあるということです。湊と依里のような苦難からの解放を願う者たちにとっては、ビッグランチの終末には革命的解放の到来という意味合いが濃厚であることは確かです。
    監督や脚本家がどこまで意識しているかは分からないのですが、終末論の伝統は、その世俗バージョンとして、各種の未来論、革命論を派生させています。近代に盛んになったさまざまなユートピア運動、マルクス主義などを含めた社会主義運動、さらにヒッピーのコミューンから、より地に足のついたさまざまな福祉活動、人権推進運動などが、「神の正義の実現」という終末論的モチーフの歴史的派生物という性格をもっています。
    その延長上に、宮沢賢治の有名な「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」も、是枝監督が脚本台本の冒頭に書き入れた「世界は、生まれ変われるか」もあるのだと思えば、ここで湊が高らかに鳴らすラッパに終末的イメージを感じ取ったとしても、それほど突飛な解釈とは言えないと私は思います。

■「死」を乗り越える通過儀礼

    ビッグランチの話が出たところで、依里と湊の夢想するこのSF的な終末イメージについても、その象徴的意味合いを考えてみましょう。
    依里の説明によれば、ビッグランチ(ビッグクランチの取り違え)とは、時間が逆転して宇宙がゼロから再スタートすることです。湊はこれを「生まれ変わる」ことと受け止めています。それはまた、二人の宇宙船である電車の発進と関係のある出来事であるらしく、二人のその時のために電車内を宇宙的イメージの切り紙やオブジェで飾りつけています。
    湊は、依里救出に馳せ参じたとき、バスルームでぐったりしている依里に向かって「ビッグランチが来るよ」と言います。どうやら電車の発進が迫っているらしい。実際には土砂崩れが起きて転覆するのですが、二人は直前まで目を輝かせて出発を期待しています。
    二人の夢想においては、ビッグランチのそのとき、電車が動き出し未来へと発進するらしい(実際、脚本では二人は走る電車の中でインディアンポーカーをする幻覚を見ており、未公開シーンでは銀河鉄道のように宇宙空間を走っているようにも見えます)。
    現実的次元においては、電車は転覆し、二人は死の危険に曝されます。しかし、それによって二人がひるむことはなく、あたかも予定通りであるかのようにして、二人は窓から抜け出し、排水溝の闇を潜り抜け、そのまま光の中へ駆け出します。結果的に、それがビッグランチのもたらしたものだったのでした。
    人生の新段階を迎える儀式を通過儀礼と言います。それまで伏せられていた奥義の伝授を含む場合にはイニシエーションとも言います。伝統的なイニシエーションでは、参加者はしばしば象徴的な死を味わいます。たとえば、バヌアツの伝統行事では大人の仲間入りするための儀礼として高い所から飛び降ります。足には長いツタをくくりつけているので、墜死する心配はありません(いわゆるバンジージャンプの起源です)。
    映画の表現として見た場合、ビッグランチによる発進/転覆は、まさにこの大人になるための通過儀礼あるいはイニシエーションにあたると考えられるでしょう。湊と依里は象徴的死を通じて古い人生を後にし、新たな人生の段階に進んだということです。
    もちろん、湊と依里が「さあ、僕らはこれから通過儀礼を果たすぞ」などと考えたわけではなく、二人はただ無意識に突き動かされるままに行動しているだけです。そういう意味で、これはあくまでも監督+脚本家が観客に向けて発信した神話的ビジョンなのです。(無意識と言えば、湊と依里は、監督と脚本家しか知らない無意識に突き動かされて、宮沢賢治の銀河列車のビジョンをも演じたことにもなりますね。)




第三章    告白のダイナミックス ── 神と良心と禅問答[5/5]
第四章    死と終末のイニシエーション[2/5]