〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
大場唯央(静岡県大慶寺)
佐々木教道(千葉県妙海寺)


慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第3回は、日蓮宗の大場唯央(静岡県大慶寺)さんと佐々木教道(千葉県妙海寺)さんをお迎えしてお送りします。


(6)平等思想が法華経の要


■揺り戻しとしての日蓮宗

──法華経は誰でも成仏できる教えであるというお話でしたが、他の宗派、経典だとそうではないのですか?

大場    ちょっと長くなってしまいそうですが順に説明しますと、まずお釈迦様が亡くなられたときに、人々はお釈迦様のご遺骨を安置するストゥーパという仏塔を建て、それを礼拝する信仰が生まれました。だけどストゥーパはお釈迦様と違って法を説いてくれません。それで「だったら法を説いてくれる別の仏を大事にしよう」という流れが出てきたり、お布施も仏教教団ではなくストゥーパのほうに集まるようになってきたために、残されたお坊さんたちは仏教教団の存続に強い危機感を覚えるようになりました。
    そこでできたのが阿羅漢という制度です。阿羅漢にお布施をすると、お釈迦様にお布施するのと同等の功徳があるというシステムを発明したんです。
    この阿羅漢というシステム自体は素晴らしく、このおかげで仏教教団は存続し続けられるようになりました。阿羅漢という制度がなかったら、今の我々もいません。
    しかしですね、その後に一部の阿羅漢が、「お布施をいただけて、教団も安定している。もうこのままで十分だ」と安住するようになりました。もっと修行を積めば成仏できるのに、阿羅漢たちは成仏を目指さなくなった。そこで仏教教団側がついに切れて「阿羅漢は成仏できない」というお経を出しました。
    それが維摩経です。そのときに、仏教の歴史上初めて、成仏できない人が生まれました。
    そういう流れを経て、「でも仏教ってそもそもみんな成仏できるんだったよね。ストゥーパを信仰するのもいいけど、お釈迦様は常に法を説いているから、ちゃんと原点に戻りましょうよ」という考えのもと成立したのが法華経です。
    ですから、法華経だけがみんな成仏する教えであるのではなく、そもそもみんな成仏できるのに、成仏できなくしてしまったことの揺り戻しが法華経だというわけです。

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お話をされる大場唯央さん
(写真提供=大場唯央)
──法華経以外のお経についてはどう捉えていますか。

大場    日蓮上人は「法華経をなしにして他のお経を大事にするというのはまずいよ」と仰いました。法華経があるからこそ、他のお経も活きるのであって、法華経なしで他のお経だけを重んじると、おそらく日蓮上人に怒られるんじゃないかなと思います。

■インドで仏教が信仰されない理由

──日本や東南アジアで発展した仏教が、なぜ仏教発祥の地であるインドではあまり信仰されていないのでしょうか。インドでは大半がヒンズー教徒で、仏教徒は1%未満だそうですが。

大場    カースト制度があるからだと思いますよ。仏教とカーストっていうのは相入れないんです。人としての価値は生まれによるものではなくて、行いによるものだという思想が仏教の根本にあるので、カーストを受け入れた仏教はもはや仏教じゃないだろうという気がします。

佐々木    カーストのあるインドで平等を説く仏教が生まれたというのが奇跡的というか、すごいことだなと、インドに行くと特に思います。ここでお釈迦様は平等を説かれたのか、と。

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インドで仲間と共に

(写真提供=佐々木教道)


前野    でも、士農工商という身分制度があった時代の日本でも仏教は広まっていましたよね。

大場    江戸時代に爆発的に仏教寺院の数が増えたのは、お寺が身元保証(戸籍管理)の役目を担うことになったからです。その当時、お寺はいわゆる士農工商に入らない人たちも檀家にすることによって、その人たちの身元を保証していました。表向き士農工商は守るのだけれども、士農工商があった上で、お寺が存続することによって、いわゆる士農工商以外の人たちもきっちり救ってきた。そういう歴史はあると思います。またカーストは生まれによって決まるものですが、士農工商は、もちろん基準は生まれにありましたが、行いによって選べていたみたいですし。

安藤    浄土宗や真宗、時宗ですと、差別されている人も平等、逆に差別されているがゆえに仏に近いんだと、そのような教えになっていきますよね。真の意味での平等は、多様であることと両立するんだろう、逆にそうでなければならないだろうという感じがすごくしています。すべて等しいから平等なのではなくて、固有のかけがえのない差異があるからこそ、平等なんだ。そのような教えに通じてくるのかなという気がするのですが、いかがでしょうか。

大場    そうですね。竜女成仏の話ともリンクすると思います。あれも、竜女はそのままの姿で本当は成仏しているのだけれども、「竜女の成仏なんてありえない」という価値観を持っている聴衆を納得させるために、あえて女という形を男という形に変えて成仏した話にしたのだと思います。
「竜女が男性に変わって成仏するんだったら、女性の成仏じゃないじゃん」と言われるところですけど、そうやって竜女の成仏を説いているというのは、先ほどの士農工商というのを受け入れながらもすべての人を救っていたところと僕の中ではリンクします。本当の仏教だったら「竜女も成仏します、はい終わり」なんですけども、それだと理解されないから、竜女が一回男に変わって成仏していくという表現にする。現実世界とうまくやっていくために、多少妥協してでもみんなを納得させるほう選んだのかなと僕は感じています。

(つづく)


2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年6月21日    オンラインで開催
構成:中田亜希

(5)仏教と一神教は何が違うのか
(7)お寺は過去と現在と未来をつなぐ