〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
神崎修生(福岡県信行寺)
西脇唯真(愛知県普元寺)


應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画、「お坊さん、教えて!」の連載第5回は、浄土真宗の神崎修生さん(福岡県信行寺)と西脇唯真(愛知県普元寺)さんをお迎えしてお送りします。


(5)さとりへのプロセス


■還相回向

前野    天台宗は「みんなの中に大日如来がある」「すべての人は仏になるもとを持っている」、浄土宗は「死後に救われる」と言われていました。
    浄土真宗の場合はそれがもっと手前にくるわけですよね。阿弥陀様に委ねるという意味では天台宗と真逆のようにも思えますが、でも委ねることで「生きていながらにして救われるのだ、すべての人が救われるのだ」ということは、一周回って同じではないかと感じました。
    大乗仏教というのは、その名の通り大きな乗り物の仏教なので、「みんなが救われるのだ」という意味では、どの宗派にも通底するのかなと思ったのですが、そもそも大乗仏教と上座部仏教の違いはどういうところなのでしょうか。今の解釈でいいのですか?

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前野隆司先生(撮影=横関一浩)
西脇    大乗仏教は自分だけが仏になるのではなく、すべてのものを救うことを目指します。浄土真宗であれば自分がお念仏を称えてお浄土に行ってそれで終わり、ではなくて、お浄土に往った者が仏となって、すべてのものを救うために再び戻ってくる。そういう還相回向(げんそうえこう)という教えがあります。戻ってきてすべての者を救うのが最終目的なのです。
    どんな人をも自由自在に助けられるような身になれる世界。しかもしれを楽しみ喜びとするような世界。それが理想のさとりと考えられている。自利のための利他ではなくて利他のための自利だと私は学んできました。

神崎    お釈迦様の仏教(上座部仏教)と大乗仏教はずいぶん特徴が違うと言われています。
    まず、お釈迦様の仏教とは、さとりに至ったお釈迦様をモデルにして、同じように出家して瞑想に没頭する出家仏教です。お釈迦様当時の出家は生産活動を一切せず、ひたすら瞑想修行に励んだと言われます。田畑を耕すことも、何か商いをすることもありません。その代わり托鉢に行き、信者の方にいろいろなものをお布施していただきます。
    おそらくそれは安定的な時代には可能だったのだと思います。しかしインドも混乱期に入りますと、そういった出家仏教がだんだん難しくなってきました。そして、一部の限られた方による出家の仏教ではなく、一般的な生活を送りながら皆が等しく救われていく道はないのかと模索した上で生まれてきたのが、大乗仏教だと言われています。
    大乗仏教において「みんなが救われていく」のは共通している部分だと思いますが、救われていくための方法はそれぞれ異なっているように思います。
たとえば浄土真宗や浄土宗の場合は、阿弥陀仏という仏様によって救われていきます。
一方、他の宗派の場合は、過去生で「私は仏になりたいのです」と仏様に誓い、「きっとあなたはなれますよ」と言われているので、いい行いをすれば仏のさとりに至ることができるとする考えがあります。仏性(ぶっしょう)という仏になる種を持っているのだから、それを磨いていけばいいのだ、ということが強調されているわけです。
    浄土宗や浄土真宗の場合は、過去生で仏に会っていないんです。だから信心や念仏を通じて阿弥陀仏に遇って、これから仏になる種をいただいていくと考えるのです。
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信行寺での法要の一シーン(写真提供=神崎修生)
安藤    親鸞聖人も天台に学んだ人なので、外から導かれて未来の仏の可能性に到達していくという方向性、現状を変えていく力が未来からやってくる、そういうタイプの捉え方になっていくのかなと思いました。素人考えですけれども。

神崎    大乗仏教では「過去生において仏様に会った」という思想がメインだと言われますが、浄土真宗では「今、浄土という場所に仏様がおられる」と考えるんですよね。過去ではなく今別の場所にいる。パラレルワールドと言ったりしますけど、そういう捉え方が特徴かもしれないですね。


■社会運動に積極的な浄土真宗

安藤    日本の仏教の中で、キリスト教的な世界観と一番近いのが浄土真宗なのではないかと思います。ただ、キリストの神と阿弥陀如来が同じだと言っているわけではありません。彼方にいる存在と私たちとの関係ということでの完全な平等性と、それから未来に何か実現すべき世界があるというようなところが共通しているのかなと思います。だからこそ、社会改善といった点で浄土真宗に属する方々の果たしてきた役割は非常に大きくて、それが悪人正機といったことにも通じているのかなと思います。近代日本思想を紐解いていっても、浄土真宗系の人に社会活動家がかなり多いような印象を受けるのですけども、そのあたりいかがでしょうか。

神崎    それぞれの時代で苦しんでらっしゃる方と共にあったのが浄土真宗のお寺であった、ということは言えると思います。お寺に集う方々が抱えている問題意識がお寺の課題意識にもなったと思いますね。
    一方で、親鸞さんはとても正直な方だったので、いくら利他的な考え方をしようと思っても、自分中心の考え方が混じってしまう。そんな自分は到底他人を救えるような人間ではない。そういう気持ちもあって、社会課題と向き合いながらも、「自分にそのようなことができるのだろうか」という葛藤は常にあったのではないかと思います。
    だからこそ、「阿弥陀様という仏様に最終的には救われていくんだ」「阿弥陀様が我々の依りどころなのだ」という思想が一番の核になったのだと思いますが、それだけでもいけないということで、浄土真宗は様々な社会活動の関わってきたのではないかと思います。

西脇    仏教の大学で、自分の行動を迷ったときには阿弥陀様の「決して見捨てない」という教えに照らし合わせて考えてみなさいと教わりました。ですから浄土真宗が社会課題の解決、不平等の解決につながるのも自然なのかなと思います。
「浄土真宗を一回知ると、自分が何かいいことをしても何かもやもやが残る」と仏教の学校の先生が言っていました。私自身も実感がありますが、何かいいことをしても「自分がやった」という気持ちが残ったり、誰かのためにやったつもりでも実際その人を傷つけていたり、本当の善はなしきれないのですよね。
    でも、なしきれないところから何をするのかというのも大事なのかなと思います。
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テンプルモーニングの活動をされる西脇さん(写真提供=西脇唯真)
神崎    浄土真宗が人助けを否定しているわけではありませんが、「本当にそれでいいのか」「自分の思いがやっぱり混じっているのではないか」と、常に問いかけられているような気はしますね。

安藤    ある意味では親鸞という人はすごく正直な人なのですよね。

神崎    そうですね。正直な人だったと思います。

安藤    絶対に欲望などを消滅させることはできないし、悟りも実は存在しないのではないかという疑いの中で、逆に信の問題はどういうところに立てられるのか、とても考え抜いた人です。ですから、ひょっとしたら日本の仏教者の中で一番正直な人だったのかもしれないと感じました。
    今日のお二人のお話の特徴としては、「何が正しい」とか「何が善である」などとは決して言えないし、言った瞬間に終わってしまうということだったと思います。だから親鸞は妻も家族も持ったし、最後まで悟りきれないから、髪の毛も剃らなかった。ひょっとしたら「出家すれば救われて修行すれば悟りを得られる」といった仏教の考えそのものを壊してしまうようなところもあったのかもしれないと思いました。だから逆に親鸞という人が現れ、そしてその親鸞が残した言葉が、ここまで強く伝わったのかなとも思うのです。
    今日お二人が「絶対に迷いは捨てられない」と繰り返し仰っていることが、まさに親鸞その人の教えなのかなと感じられました。仏にはなれないけれども仏からの何かを受けながら、人と人とが関係を結んでいく。そういったことが重要なのではないか。そうぼんやりと見えてきました。

神崎    そうですね、親鸞聖人は罪とか悪の意識が非常に強い方だったと思います。お父様は政治絡みのことで要職を外されて、親鸞聖人も男性のご兄弟も全員がお寺に預けられなくてはいけませんでしたし、京都の街中にはそこら中に死体があるという状況で、生きるとは何なのか、死んでいくとは何なのか、正邪や善悪とは何か、そういうことがずっと問いとしてあったのではないかと思います。

(つづく)



2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年8月30日    オンラインで開催
構成:中田亜希



(4)髪も剃らず妻帯もした親鸞聖人
(6)未来の生き方の鍵になる大いなるものの視点