〔ナビゲーター〕

前野隆司(慶應義塾大学)
安藤礼二(多摩美術大学)

〔ゲスト〕
阿純章(東京都圓融寺)
小野常寛(東京都普賢寺)

慶應義塾大学の前野隆司先生(幸福学研究家)と多摩美術大学の安藤礼二先生(文芸評論家)が案内人となり、各宗派の若手のお坊さんをお呼びして、それぞれの宗派の歴史やそれぞれのお坊さんの考え方をざっくばらんかつカジュアルにお聞きする企画「お坊さん、教えて!」。連載第2回は、天台宗の阿純章(東京都圓融寺)さんと小野常寛(東京都普賢寺)をお迎えしてお送りします。


(5)修行について    


■修行と悟り

安藤    最初のほうに、最澄さんは学問仏教を一つに統合し、実践仏教を一つに統合し、さらに学問と実践の仏教を矛盾なくまとめていったというお話がありました。私は書物の知識しかありませんが、最澄さんは、山に入ったら12年間降りてくるなと言ったそうですね。かなり過酷だと思いますけど、そういった天台宗の実践面で何かお話をお聞きできたら嬉しいのですが、いかがでしょうか。

小野    私が体験させていただいたのは百日回峰行(かいほうぎょう)という100日間の修行です。千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)が有名ですが、その100日のみさせて頂く修行です。「身体を賭して歩く過酷な荒行(あらぎょう)でしょ」、とたまに勘違いされるんですけど、そうではありません。「あなたを尊敬します、なぜなら仏さんになる人ですから」と誰に対しても軽んじない、常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)という法華経に出てくる菩薩がいらっしゃいます。お釈迦様の前世とも言われていますけど、その常不軽の想いをもって、平安時代末期に相応和尚(そうおうかしょう)という慈覚大師円仁さんの弟子が、それこそ草木に対しても礼拝(らいはい)していたというところを起源とした修行です。
    常不軽菩薩になる、不動明王になりきる、そうなることで本当の幸せに近づける。その再現性を上げていくのが修行だと思います。修行に関してはやらないとわからないという面が多分にありますので、客観的にご覧になると辛いもののように見えたり、中道に反しているのではと言われたりするのですけど、安楽の世界が垣間見える経験は私自身ありましたので、修行というのは幸せをつかむための工程と捉え直したほうがよいのではないかと思います。

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百日回峰行に取り組まれる小野常寛さん

(写真提供=小野常寛)    


前野    悟りに興味があるので、小野さんが100日間やって、苦しくなくて、幸せに近づいたというのをもうちょっと具体的に教えていただくことはできますか?    やらないとわからないのというのは承知しているのですが。

小野    修行は基本的に辛くて、辛いほうが90%くらいなんですけど、その最中に、幸せの沸点が極端にバンと下がるタイミングがあるんですよね。それこそ、そこに存在しているだけで、目に入るものがあるだけで、あるいは歩いているだけで、本当に世界一幸せなんじゃないかと思える、山に溶け込むような、そんな境地を回峰行の中で私は体験させていただきました。それが天台宗の考えるところでいう円融(えんゆう)だと思います。僕自身の稚拙な経験でしかありませんけど、その境地を一瞬感じることができたように思えたのです。それを悟りというかはわからないですけど、こういう経験ができるからこそ、このような修行法が今も残っているんだろうと思いますね。

──比叡山延暦寺の十二年籠山行や、小野常寛さんが経験された百日回峰行といった特別な感じの修行というのはどういう方がどういうきっかけでされているのでしょうか。また、滝行なども経験される方は多いのでしょうか。

小野    統計を取ったわけではないですけど、十二年籠山行や千日回峰行をされる方の多くは寺の子どもではなく、普通の一般の家庭で生まれて、志を持って修行に入られる方であると思います。やはり修行に命を預けるというか、本当に信用してすべてを捧げるという思いのある方がやられていると感じます。
    十二年籠山行に関しては最澄さんの「12年間山に籠りなさい」という言葉を本当に心のよりどころとしてやられるわけで、在家の方が、すべてを捨てて取り組まれるという感じだと思います。私のように執着まみれのお寺の子には難しいです。
    滝行については、密教イコール滝行というイメージがあるかもしれませんが、天台宗では特に滝行は行いません。千日回峰行を満行された酒井阿闍梨さんという方がよく滝行をなさっているので、そこがクローズアップされて見られているのかなと思います。

■本覚思想

安藤    私は能をはじめとする日本の芸能に大きな関心を持っています。能の演目で、人間のみならず草も木も土も石もすべて成仏できるという、あらゆるものは本覚を持っているという本覚思想(ほんがくしそう)を扱ったものがあります。人間を特別視しないとう思想だと思いますけれども、それがいわゆるアニミズムの概念とも非常に近しく、なおかつ現代社会を生きる私たち自身の問題としてあらためて浮上してくるのではないかと考えています。比叡山だからこそ本覚思想が生まれたというか、一つの帰結としてそういう考えが生まれてきたのかなと考えたりするのですが、いかがでしょうか?

    山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)は日本で初めて生まれたとよく言われますが、実は中国でも唐代の頃に説かれているんです。ただ、日本ほどは着目されなかった思想で、特に最澄さんによってそれがクローズアップされたという経緯があります。
    最澄さんご自身が山で修行をされて、小野常寛さんが感じられたのと同じように、「ああ、これすべて仏だなあ、自然すべてが仏じゃないか」みたいな体感があったのではないかと思います。
    ただ、天台宗だけが本覚思想を説いていたわけではなく、空海さんにも同じような思想がありましたので、山川草木すべてが仏だというのはもともと日本人の感性と触れ合うところがあったのではないかと思います。

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子どもたちを指導する阿純章さん

(写真提供=阿純章)


小野    意外に思われるかもしれないんですけど、回峰行では比叡山の麓にある日吉神社(ひよしじんじゃ)で神々に対して一所懸命拝みます。最澄さんも比叡山に入る前に、神様に向かって「比叡山に入るのでどうかお護りください」と仰っていますし、山林修行をする人間として神道がベースにあるのは当然ことだと思っております。
    草も木も仏であると考えるのは、神道がそういったものを神だと考えているから、私たちもそれらを仏さんだと捉えて敬うわけです。神道と日本仏教が融和するときに当たり前のように考えられたものだと思いますね。
    それが常不軽菩薩という何に対しても軽んじないという思想と相まって、安然(あんねん)さんの時代にそこがさらにクローズアップされていきました。

安藤    アニミズムのアニマというのは魂ですので、森羅万象さまざまなものに魂が宿るという、そういった思想ですよね。ヨーロッパの人類学では、未開とか野蛮とか、そういった社会を総称するような形でアミニズムと言われていましたが、いまはその考えが完全に逆転して、そういう考えを持たないと駄目なのではないかという時代になっています。神道と仏教というのが、別々のものではないというのは、これからの一つの指針になるのではないかと思います。

(つづく)


2021年慶應SDMヒューマンラボ主催オンライン公開講座シリーズ「お坊さん、教えて!」より
2021年5月24日    オンラインで開催
構成:中田亜希

(4)天台宗という仏教
(6)比叡山で一乗の理想を目指す