アルボムッレ・スマナサーラ(テーラワーダ仏教(上座仏教)長老)

Suttanipātapāḷi     5. Pārāyanavaggo     12. Bhadrāvudhamāṇavapucchā 
※偈の番号はPTS版に準ずる。(        )内はミャンマー第六結集版の番号

一流の学究者16人と、智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、スマナサーラ長老が現代的に解説していくシリーズ。今回は12人目となるバドゥラーヴダ仙人とお釈迦様の対話をお届けします。全5回の第4回。

第4回:生命とは執着する存在である


■バドラーヴダ仙人の問い2

1102(1108). 

‘‘Nānājanā janapadehi saṅgatā, tava vīra vākyaṃ abhikaṅkhamānā; 
Tesaṃ tuvaṃ sādhu viyākarohi, tathā hi te vidito esa dhammo’’.

〔参考訳〕
健(たけ)き人よ。あなたのおことばを聞こうと希望して、多数の人々が諸地方から集まってきましたが、竜(ブッダ)のおことばを聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。かれらのために善く説明してやってください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのですから。」


    この偈について、あまり詳しい分析はいらないと思います。Nānājanā(ナーナージャナー)いろいろ人々が、janapadehi(ジャナパデーヒ)いろいろな地方、いろいろな州から。インドは大きいので、いろいろな州からお釈迦様のところに集まるのだというのです。その彼らは、tava vīra vākyaṃ abhikaṅkhamānā(タワ    ヴィーラ    ワークヤン    アビカンカマーナー)勇者よ、あなたの言葉を期待しているのです。Vīra(ヴィーラ)というのは偉大なる人、勇者ですね。「あなたの言葉を聞きたがっている、彼らによく教えてあげてください」というお願いの言葉ですね。
    Vidito esa dhammo(ヴィディトー    エーサ    ダンモー)この真理を発見できるように。前の偈にあった、sutvāna nāgassa apanamissanti itoというフレーズの訳を、中村元先生はこちらに組み入れています。まとめると、「いろいろなところから人が集まっているのだから、どうか教えてください」というシンプルな意味になります
    これでやっと、お釈迦様の答えに入ります。


■ブッダの答え1

1103(1109)

 ‘‘Ādānataṇhaṃ vinayetha sabbaṃ, (bhadrāvudhāti bhagavā) 
Uddhaṃ adho tiriyañcāpi majjhe;
Yaṃ yañhi lokasmimupādiyanti, teneva māro anveti jantuṃ.

〔参考訳〕
師(ブッダ)は答えた、
「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。


    ●「自分のものにしたい」という気持ちを捨てる

    Ādānataṇhaṃ vinayetha sabbaṃ(アーダーナタンハン    ヴィナイェータ    サッバン)(執着する妄執をすっかり除き去れ)
    Ādānaとは、自分のものにしたがる気持ち、執着です。Taṇhaṃ(タンハン)とは渇愛で、欲しがる気持ちのことです。Vinayetha sabbaṃ(ヴィナイェータ    サッバン)いかなるものに対しても、自分のものにしたがる気持ちと、欲しがる気持ちを捨ててください。何に対しても。Sabbaṃ(サッバン)というのは一切です。一切といえば、一切の現象です。何ものに対しても「欲しい」という思いを捨てること。「ああ、取りたい。私のものにしたい」という気持ちを捨ててみてください、ということです。

    Uddhaṃ adho tiriyañcāpi majjhe(ウッダン    アドー    ティリヤンチェーピ    マッジェー)(上にも下にも横にでも中間にでも)
    それは上であろうが、下であろうが、横にあるものであろうが、真ん中にあるものであろうが。これはすべての方向にあるすべての場所、という意味です。真ん中、上・下・横というところにある、いかなるものに対しても愛着を捨てなさい、と教えています。
    たとえば、前の方向に桜が咲いていて、「ああ、きれい」と思って執着してしまう。そのように、前の方向に起こす「欲しがる気持ち」を捨てなさい。真ん中というのは自分自身です。自分自身を含めて、すべてに対して愛着を捨てるのです。「すべてを捨てなさい」と言われても、私たちには何も捨てられません。そこで、愛着・執着を捨てる、欲しがる気持ちを捨てるのです。それはここで生まれるものだから、その執着は捨てられますよ。
    たとえば前にすごいごちそうがあると、愛着が生まれてくるでしょう。そのごちそうを捨てたら愛着が消えますか?    「せっかく食べようと思っていたのに」とさらに腹が立つだけでしょう。そうやって、煩悩が増えるのです。だから捨てるということは、物を捨てることではなくて、愛着を捨てることなのです。そこは他宗教、インドにあった瞑想の達人である仙人たちが語っていた宗教の世界とも違うところなのです。お釈迦様が菩薩時代に指導を受けた仙人たちは、やはり執着そのものを捨てていないのです。「この世の中はけっこうです。その代わりにもっと素晴らしい梵天に生まれ変わります」と。そういう気持ちもまた、形を変えた執着には違いないのです。

    ●執着によってマーラの虜になる

    Yaṃ yañhi lokasmimupādiyanti, teneva māro anveti jantuṃ(ヤン    ヤンヒ    ローカスミムパーディヤンティ    テーネーワ    マーロー    アンヴェーティ    ジャントゥン)(世の中の何ものに執着しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る)
    我々がこの世にあるものに対して、upādiyanti(ウパーディヤンティ)(執着して)、「あっ、私の物だ」と思った瞬間、そうやって執着を作った瞬間、マーラにやられてしまうのだ、ということです。世の中の何ものに執着しても、それによって「悪魔が人につきまとうに至る」という、文学的な表現です。神秘的な意味はありません。悪魔が待ち構えていて、人が物に執着するまで待っていて、出てきて「てめえ、やっつけてやる」とかではないのです。
    たとえば、猫を飼ってみてください。いつでも猫ちゃんの機嫌を取らなくてはいけないから大変です。説法中でも(寺猫の)ナミちゃんがこちらに来たら、彼女は自分が偉いと思っているのだから、私はナミちゃんともしゃべらなくてはいけない。自分の自由をその時点で失ってしまいます。旅行を計画しようとしても、飼っている犬や猫はどうする?    そこで問題が起きます。結婚してみてください。すべて自由がなくなるのです。自分が欲しいと思って取った対象が、自分をやっつけてしまう。お釈迦様は、それを「悪魔(マーラ)」という言葉で表現しているのです。子供が欲しいと思って子供を産んでしまったら、子供が自分をやっつけてしまいます。子供の希望通りに生活しなくてはいけないのです。いかなる物質も、いかなる対象も、そうやって、もう抜け出せない状態にしてしまうのです。

    ●知識すらも束縛となる

    物ではなく、知識が欲しいと思ったとしても同じことです。その知識によって、自由がなくなるのです。自分がどんな方向の知識が欲しいのかという執着によって、やられてしまいます。知識にもいろいろな種類があるでしょう。そのうちの何かを学びたくなるのです。たとえば、考古学を学びたいと思う。そうすると、その世界に言われる通りに、自分が奴隷のように仕事をしなくてはいけません。まず歴史の勉強をしたり、考古学の基礎知識の本を探して勉強したりして、図書館に行っても、ずーっと考古学の書棚に張り付いているはめになります。発掘調査をする場合も、掘ってしまえばいいわけではないでしょう。そちらにいろいろな決まりがあるのです。
    だから、何かが楽しい、何かが欲しいということで、世間の現象に自分がやっつけられてしまうのは、もうどうしようもないことなのです。それが世間というものだからです。自分が好きな何かをひとつ選んだといっても、それは世間のひとつを選んだに過ぎません。選んだ時点で、自分の希望ではなくて、世間の希望に従わなくてはいけない。結局は「自分で生きる」という自由が消えてしまうのです。選んだはずの世間に操られているのです。   
    子供が欲しいと思った人は、当然、子供が病気になると、すごく悩まなくてはいけない。子供が勉強しなかったら、それに悩まなくてはいけない。勉強していても成績が上がらなかったら、それにも悩まなくてはいけない。だから何ひとつにでも執着してしまうと、この問題が起こるのです。塵(ちり)ひとつに執着しても、自分がその塵を愛する必要があります。 そういうわけで、解脱の境地というのは、この世にあるもの、上であろうが横であろうが下であろうが真ん中であろうが、すべてに対して執着を捨てることなのです。執着すれば、マーラがつきまとうのです。
    次の偈を読んでみましょう。


■ブッダの答え2

1104(1110)

 ‘‘Tasmā pajānaṃ na upādiyetha, bhikkhu sato kiñcanaṃ sabbaloke; 
Ādānasatte iti pekkhamāno, pajaṃ imaṃ maccudheyye visatta’’nti. 

〔参考訳〕
それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ、全世界においてなにものをも執してはならない。──死の領域に愛著を感じているこの人々を〈取る執着ある人々〉であると観て。」


    ●気づきによって「執着する機械」をやめる

    Tasmā pajānaṃ na upādiyetha(タスマー    パジャーナン    ナ    ウパーディイェータ)(それ故に、明らかに知って、執してはならない)
    Tasmā(タスマー)ですから、pajānaṃ(パジャーナン)この真理をよく知って、na upādiyetha(ナ    ウパーディイェータ)、執着しないことにしましょう。
    Bhikkhu sato kiñcanaṃ sabbaloke(ビック    サトー    キンチャナン    サッバローケー)(修行者は、よく気をつけ、全世界においてなにものをも)
    スッタニパータ彼岸道品に繰り返し出てくる単語がsati(サティ)です。真理に達する実践として、sati(気づき)がどうしても欠かせないのだと強調しているのです。中村元先生は日本語の文章に馴染むように、「よく気をつけ」と訳していますが、そんな簡単なことではありません。お釈迦様は、「この瞬間瞬間の出来事に気づいていない限り、無執着状態は作れないのだ」と教えているのです。「気づきがない」ということは、「執着がある」ということなのです。気づきがある瞬間には、執着はない。この世の中で何においても何ものに対しても、気づきをもって執着しないことにするのだ、と説いている偈です。   
    Ādānasatte iti pekkhamāno(アーダーナサッテー    イティ    ペッカマーノー)(〈取る執着ある人々〉であると観て)
    Ādānasatte(アーダーナサッテー)とは、生命のことを指しています。生命とは執着する機械だと言っているのです。生命はいつでも、執着しよう、執着しようと働いています。どんな生命であっても、生命であれば、アメーバのような微生物であろうが、人間であろうが、巨大なクジラのような生命であろうが、あるいは神々であろうが、生命だったら執着する。生命というのは執着しまくる存在なのです。
    たとえば、ヒルという小さな血を吸う生命体がいるでしょう。ヒルには吸盤が前と後ろにあって、移動しようと思ったら、ひとつの吸盤で吸い付いた状態で、もうひとつは外して、身体を折り曲げてから、また別のところに外した吸盤でひっつくのです。そんな感じで我々も生きるうえで執着したものを捨てなくてはいけない。しかし、捨てたと思ったらまたすぐ別なものに執着するのです。執着そのものをやめることは決してしません。

    ●マーラの王国から脱出する

    Pajaṃ imaṃ maccudheyye visattaṃ(パジャン    イマン    マッチュデイェー    ヴィサッタン)(死の領域に愛著を感じているこの人々を)
    Maccudheyye(マッチュデイェー)とは、マーラの領域(kingdom)です。Kingdom of Māraなのです。マーラさんの領域、マーラに抑えつけられている世界です。生命とは、執着することで「マーラ国の国民」になっているのです。マーラに抑えつけられて、自分で生きるということは瞬間も成り立たない。それを日本文化では哲学にして「生かされている」とか、偉そうなことを言っているのですが、まったくその通りです。あなたは生きていないのです。ただの奴隷であって、何の自由もないのです。みじめに生かされているだけです。犬に生かされて、猫に生かされて、おじいさんおばあさんに生かされて、奥さんに生かされて、子供に生かされて、会社に生かされて、政府に生かされている。だから私の仏教的な解説を通してみると、マーラの国民として「生かされている」状態はあんまりにも残念で、みじめなのです。
    それは、他をいじめることが政治だと思っている、そんな王様が君臨する国の国民になることです。マーラというのはそんな感じの文学表現で、何かに執着したらそこにやられてしまうのです。それをよく知って、何ものにも執着しないでいてください。
    ということで、経典はやっと無事終わりますが、私の異論は、内容的に一番目の偈もけっこう覚った人の心の状況を説明してあるので、お釈迦様にはしゃべることは何もなくなってしまうのです。それはどうかなぁ、と思わないでもないところです。お釈迦様も答えの偈の中で、とてもわかりやすく、「執着を捨てなさい」と言っているのです。質問者は、「すでにすべての執着を捨てているあなたに尋ねます」と尋ねているので、お釈迦様はただ、「執着を捨てなさい」と言うだけなのです。何かちょっと、対話としては成り立たなくなっているようにも見えるのです

    ●ブッダの言葉には心を清める力がある

    それでも、私の見方では、お釈迦様のこの2つの偈(1103偈と1104偈)はとても美しい偈なのです。確かにブッダの言葉だと思います。偈の中に、なにか特別な波長が入っているのです。意味を理解しながら偈を唱えてみるだけでも、その瞬間で心は、「何にもとらわれない状態」に、なんとなく仮にではあるけれど、安穏な状態になってしまう。そういう強い力を持った2つの偈なのです。
    たとえば1104偈にある、ādānasatte iti pekkhamāno(アーダーナサッテー    イティ    ペッカマーノー)というフレーズ。生命というのは何にも執着するんだよと。たとえば世の中のニュースを見たり、いろいろな外国の出来事を見ると、「世の中がこんな有様になっているのは、生命が必死に執着しているからなのだ。生命というものは、執着することしかできないのだ」という具合に理解すると、気持ちが楽になるのです。世の中で起きているニュースなんかにいちいち引っかかってしまうと、それこそ執着ですから苦しくなるばかりです。そうではなくて、スッタニパータの偈を念じながら、「世の中というのは、そんなものだよ」と見るだけです。それだけでも心が安穏になるのです。動画などを観て、どこどこがテロ攻撃を受けたとか、どこどこで戦争になっているとか、そういう情報に触れて「ああ、なんて酷(ひど)いことですか」と反応するのではなくて、「別に、そういうことは、普通にあり得ることなんだ」という感じに冷静に受け止めることができるようになります。
    バドゥラーヴダ仙人との問答の解説は以上です。

(第5回につづく)


2017年12月25日    ゴータミー精舎での法話をもとに書き下ろし
構成    佐藤哲朗


第3回:物に依存しない聖者の生き方
第5回:存在したい心、存在したくない心    (2026年7月22日(水)午前7時公開予定)

お知らせ

アルボムッレ・スマナサーラ[著]
『スッタニパータ    第五章「彼岸道品」』
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一流の学究者16人と、
智慧の完成者たるブッダの対話によって導かれた真理を、
鮮やかな現代日本語でわかりやすく解説する。

第一巻
Ⅰ    アジタ仙人の問い
Ⅱ    ティッサ・メッテイヤ仙人の問い
Ⅲ    プンナカ仙人の問い
Ⅳ    メッタグー仙人の問い

第二巻
Ⅴ    ドータカ仙人の問い
Ⅵ    ウパシーヴァ仙人の問い
Ⅶ    ナンダ仙人の問い
Ⅷ    ヘーマカ仙人の問い


【以下、第三巻以降に収録予定】

Ⅸ    トーデイヤ仙人の問い
Ⅹ    カッパ仙人の問い
Ⅺ    ジャトゥカンニン仙人の問い
Ⅻ    バドラーヴダ仙人の問い
XIII    ウダヤ仙人の問い
XIV    ポーサーラ仙人の問い
XV    モーガラージャ仙人の問い
XVI    ピンギヤ仙人の問い


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第一巻


アジタ仙人の問い/ティッサ・メッテイヤ仙人の問い/
プンナカ仙人の問い/メッタグー仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]





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スッタニパータ    第五章「彼岸道品」
第二巻


ドータカ仙人の問い/ウパシーヴァ仙人の問い/
ナンダ仙人の問い/ヘーマカ仙人の問い

アルボムッレ・スマナサーラ[著]