構成:井本由紀(慶應義塾大学専任講師。オックスフォード大学博士課程修了, 文化人類学博士)


    演劇や舞踊など舞台表現のメソッドをベースに、身心にアプローチするグループワーク「シアターワーク」。早稲田大学や慶應義塾大学、海外ではスタンフォード大学などで実践され、いま注目を集めています。このワークショップの魅力を、体験者の寄稿や創始者の小木戸さんへのインタビューを通して伝えていく連載。第3回はワークショップ参加者、経験者の声を4回にわたって紹介していきます。その第3回。構成は文化人類学博士の井本由紀さんです。


第4回    望月恵子さん

     
    次のご紹介する寄稿文は、シアターワークのプラクティショナーコース受講者であり、教育現場においてシアターワークの実践を応用されている望月恵子さんによるものだ。シアターワークが生まれようとしていた初期の小木戸さんの活動から、現在までの展開を見届けてきている熟練者であり、公立中学校教諭でもあり心理士でもある。シアターワークを通じて記憶のかけらたちに触れ、影と向き合い、表現へと昇華していく、苦しみも喜びも伴うプロセスを歩む覚悟と開かれた意志がそこにはある。内的変容が、外的・社会的な変革をもたらすプロセスの始まりを、望月さんの文章から感じ取れるだろう。


わたしとシアターワーク~わたしの内なる治療者が目を覚ますとき~
望月恵子さん


    藤野正寛さん、井本由紀さん、島田啓介さん、水田真綾さん、松原正樹さんからの目には見えない、でも確かに存在を感じられるこのバトンを受け取り、ごくごく一般人である私がシアターワークを通して体験した人生観の変容を振り返ります。

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2019年8月10~11日軽井沢でのシアターワークにて。手前に小木戸利光さん、中央に望月恵子さん

●ひらかれた扉

    東京タワーの明かりが夜空を照らしていた2017年10月。私は知人の皆川公美子さん【*1】に誘われ、神谷町光明寺で開催された小木戸さんのパフォーマンスを観に行った。本堂の扉を開けると、厳かに響き渡るピアノと太鼓の音が全身を包んだ。私はあの日の光景、音、香り、振動の心地よさを、あれからずっと忘れることができずにいる。あの日の一体感、あの日私が描いた、「教室に光が差し込む風景」を、ずっと心の中に思い描いている。あの時は、遠い海の彼方に、雲の間から光が差し込むような、まったく手が届きそうにないと思えたものが、今の私には実態があり、実現可能なものとして感じられている。私の意識の変容、実行された行動、具現化された職場環境と明確になりつつビジョンが、5年間の、私とシアターワークの関係性を物語っている。そして、私のシアターワーク体験は、実際に私の人生において起きた出来事と深く結びついている。
    あの日、私は何を求めて光明寺に向かったのか。当時、私が皆川さんに育休復帰の不安や母親としての自信のなさを吐露していたことで、皆川さんはきっと私の心の奥で求めていたことを察していたのだろう。促されるようにして小木戸利光さんと初めてご挨拶をした。身長がすらりと高く、見上げるようなお姿だった。教師であることと、母親であることを両立していけるのだろうか、という漠然とした不安を抱えていた私は、それでも復帰後の決意を固めつつあった。今思うと、その時の決意は、「先生らしくない先生」【*2】を目指すというものだったかもしれない。その時、芽生えたばかりの決心が、何か温かいものに包まれていくような安堵感と、得体の知れないものの扉を開けてしまったような、そわそわと落ち着かない思いがした。そして、あの日の"体感"を忘れないようにと、小木戸さんのご著書『表現と息をしている』【*3】と、2枚のCDアルバムをお守りのように胸に抱えて職場に復帰した。
    2018年11月、武蔵小杉高願寺で初の1dayシアターワークが開催された。職場の忙しさに追われていた私は、すがるような思いで参加した。せっかく心に灯った明りを消してはいけないと、迷うことなく参加した。半日かけてゆっくりと身体をほぐしていき、ゆったりとした時間の流れの中で参加者とお好み焼きを食べた。小木戸さんはどこか落ち着かない様子で、みんなが楽しそうに笑っている時でも、少し悲しそうに見えた。午後のワークでは、一人ひとりがシアターの中で順番に自分の表現を行った。ある人は涙を流しながら、ある人は日本語ではなく英語を使いながら。私はその時、とにかく自分の心と身体が望んでいることとして、床の上に大の字になって寝転がり、深い海の底から天を見上げるような姿勢をとっていた。今思うと、物事を視る視点の転換(トランジション)の必要性について、頭でなかなか受け入れられないと思っていたことを、心と身体が促していたのかもしれない。この日、小木戸さんは黒板にチョークで"Vulnerability"という言葉を書いて教えてくれた。ワークの後の帰り道、認めたくないけれど確かに自分の身体が何かを訴えている感覚があった。その震えにも似た感覚は、できれば認めたくない、無いものだと信じたい、けれど、それは紛れもなく、劣等感でボロボロに傷ついた私の心の声だった。
    あの時感じていた劣等感の正体、そして、その後も憑りつかれたようにシアターワークの催しに参加し続けていた私の魂は、その後の10数回に渡るシアターワーク体験の中で、その存在を認知され、"表現"をする機会が与えられた。言葉にして語ることができずにいた私の声、語ってしまったら……と、その声を封じられていた私の声なき声。あるときは鳴き声として、あるときは悲鳴として、そしてあるときは笑い声として、また、唄声として……。

●内なる治療者の目覚め

    2020年1月、小木戸さんがシアターワークのすべてを共有するといって開催してくれた4日間の特別講座のうち、前半の2日間が新宿のスタジオで開かれた。この回の2日目、小木戸さんがシアターワークの源流となるご自身の歩みを話してくれた。その時、小木戸さんのお母さんが私と同じように、特別支援教育に関わる教育関係者であることが分かり、私は自身の衝動を抑えきれずに、小木戸さんにある疑問を投げつけてしまった。母親が教員をしていると、子どもは抑圧された環境下に置かれてしまうことになるのではないか。それは、納得のいかない心の傷になってしまうのではないか、といった内容だった。教員を続けることで、母親として、息子を傷つけてしまうのではないかととても恐れていた。小木戸さんの動揺が私にも伝わった。私は自分の探究心を満たすために、小木戸さんに踏み込んだことを質問してしまったと深く反省した。その日の昼食は、別々のテーブルで食事をとりながら、小木戸さんを困らせるようなことをしてしまったと、自責の念があった。しかし、午後のワークが開始すると、小木戸さんは私から目を逸らすことなく、私の存在を丸ごと受け止めて、教員である私が教室でも実践可能なワークを紹介してくれたのだ。私はその時、人生の中で初めて、「何をしても許される世界」を体験した。両親を困らせることや、先生に迷惑をかけることはしてはいけないと、暗黙の内に鎖でつながれていた私が、初めて赦されたような思いだった。私自身の諦めていた領域に光が当たり、「あなたはあなたのままで良い」と肯定してもらえたような感じがした。私はその時に、私が目指したい教育者とは、小木戸さんのような存在であるとはっきりと自覚した。母親である戸惑いはまだ消えていないが、本質的な教育者になりたいと強く願う私の声を自覚した。教育は何のためにするのか、という問いの答えを見つけたような気がした。この日のワークの後に、COVID-19が蔓延し、私は4日間のプログラムを全て受けることができないまま、県外移動のできない日々を過ごすことになった。
    全国規模の行動規制は、私にとっては置かれた状況の一つであった。その期間に、自身の職場で取り組みたいことや、新たに学びたいことへの準備をすることができた。研究計画を作成し、放送大学大学院に入学した。2021年4月から、今の職場に異動となり、同時に臨床心理学プログラムで精神分析や現象学と出会った。修士論文に取り掛かりながらも、シアターワークで起きていることの本質は一体何なのかということを考えていた。また、ちょうど同じ頃、井本由紀さんと4th Placeで月に一度、オンラインで顔を合わせてMBSAT(Mindfulness Based Strategic Awareness Training)の学びを共有した。対面でのワークが難しかった期間でも、身体感覚に耳を澄ませ、他者との交流を通して感覚の調整を行っていた期間だった。しだいに社会的な行動制限が緩和され、2021年9月、私はシアターワークのプラクティショナーコースを受講することを迷うことなく即決した。シアターワークを通して、「私が私であることに意識を向けること」は、これからの教育において切実な課題だと考えていた。
    2022年7月にサンガ新社の川島さんの連載企画でシアターワークに参加した時には、切り離そうとしていた私や否定し続けていた私とやっと和解ができ、自分の人生に置かれた出来事の布置が見えて来ている時だった。この頃には、母親であることの戸惑いはなくなっていた。母親である以前に、私が「私」であるという感覚をとり戻していた。ワークの最後には、参加者全員で「源」をテーマにした創作劇を行った。1回目、参加者との即興劇を終えた後、小木戸さんは私たちに「全身全霊でその要素を演じること」を促した。小木戸さんの助言を受けると、参加者一人一人が自ずと整っていく。一瞬一瞬の命を感じながら、身体が動かされていく方向に動いていく。他者の命が目の前でうずきだす。誰のためでもなく、ただそこに在る命が動かされていく。私はその命との出会いを、ただ待ち望み、力の限り腕を伸ばした。
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2020年1月19~20日、新宿での特別講座の風景

●私が「私」として生きる在り方を探して

    2022年8月、プラクティショナーコースの対面ワーク4回目、私はこの頃から、シアターワークの実践者となることを真剣に考え始めていた。そして、不可解に思われるかもしれないが、私は教員や支援者といった立場ではなく、セラピストとしての在り方からそのヒントを得ようとしていた。それは、「教える-教えられる」という関係や、「支援する―支援される」関係ではなく、ただ「共に在る」という関係性について学ぼうとしていた。そして、そんなさ中、私がワークを提案するとき、私の無意識にある傷つき体験がワークの参加者に投影されてしまうということが起きた。その出来事についての考察として、セラピストになるということを強い矢を放つことに例えて解説している大山泰宏【*4】氏の示唆を引用する。

    矢を放つトレーニングは、当たり前のことであるが、実際にそれを行うことでしか得られない。「弓を引く」ことが、コントロールであり意識であるとするのなら、矢を放つことはコントロールを離れた無意識的な一瞬の行為である。    ―途中略-
意識で熟考するのでなく、矢を放つという一瞬の行為においては、「傷ついた治療者」としての傷の部分が無意識的に布置されやすい。


 「傷ついた治療者」とは、ギリシャの医神アスクレピオスの神話にちなんだひとつの元型である。大山氏は「そのときセラピストは、自分の傷を内的にしっかりと抱え続けておかねばならない。」「クライアントにセラピストとして向かい合うことで、活性化した自身の無意識の傷に対して向かい合い、何が起こっているのかを理解し、そこを生き抜いていかねばならない。」と、セラピストが一生学び続けていく必要があることを示唆している。井本由紀さんが前述されているように、シアターワークは、小木戸さんがご自身の生きづらさを感じている中で、表現をとおして行き場のない声に行き場を与えていく表現として生み出されたものである。私は2017年に初めて小木戸さんのパフォーマンスと出会ったときは、まだ、それはひとつのアートだと考えていた。しかし、2022年の今、私はシアターワークの実践者になろうとしている過程において、シアターワークはそのファシリテーターの在り方によって、人々に普遍的に、治療ではなく治癒をもたらす力があると感じている。これまでワークに臨まれる小木戸さんを見ていて、擦り切れそうに、ちぎれそうな痛みを感じることが確かにあった。それでも小木戸さんは、決して、自然の摂理にあらがうような存在ではなかった。むしろ、自然との一体、融合、調和を重んじる存在として感じられるようになった。これまで私が心に傷を負った病者としてシアターワークに訪れていたときは、何度も何度も、小木戸さんがご自身の傷つきを自覚されながら放つ無意識的な一瞬の行為によって、小木戸さんの中に理想の教育者像を投影し、私自身の内的な治療者が賦活されて自らを癒すことができていたのだと考えている。

    2017年の光明寺で小木戸さんと対談をされたという医師の稲葉俊郎氏【*5】は、『いのちを呼びさますもの』で医療と芸術の接点について触れている。

    ギリシャの「エピダウロス」という場所には、古代ギリシャ時代の劇場が残っている。―途中略-    エピダウロスの地には温泉があり、演劇や音楽を観る劇場があり、身体技能を競い合う競技場があり、さらに眠りによって神託を受けるための神殿(アスクレピオス神殿)もあった。そこは人間が全体性を回復する場所であり、ギリシャ神話の医療の神である「アスクレピオス」信仰の聖地でもあった。


    プラクティショナーコースを共に受けている松原正樹さんは、シアターワークを受けるたび象徴的な「死」を体験すると話していた。プラクティショナーコースのメンバーとは、定期的に会うたびにそれぞれの命が溶け合い、ワークを通してまた新たな人生が立ち現れてくるような体験をしている。連続したシアターワークにおいて「死」を眠りとして捉えると、夢の中に現れてお告げをくれるというアスクレピオスの像と小木戸さんの存在が重なる。このように考えて行くと、シアターワークの場は、死して神となったアスクレピオスを祀るエピダウロスの神殿に、人々が治療ではなくどんな治療をすればよいのか、お告げを求めてやってきて、「ゆっくりと滞在し、夜には神殿の前で眠りにつく」という古代ギリシャでの営みに近いものがあると言ってもよいのではないだろうか。無意識的な一瞬の行為によって、参加者のパラレルワールドが生み出されていくことを、引き続き探究していきたい。

    この寄稿文を寄せるにあたり、これまで共にシアターワークを体験したすべての仲間たちに感謝の意を伝えます。私はいつでもあなたがたと共に在ること、そして、いつも私のハートビートとともに、あなたがたのプレゼンスを感じています。

【脚注】
*1──皆川公美子さん 株式会社サステナミー代表
*2──井本由紀「シアターワークとは何か~「わたし」の経験が「わたし」を超えていく体験」(本連載第2回)
*3──小木戸利光『表現と息をしている』2017年、而立書房
*4──大山泰宏『心理カウンセリング序説―心理学的支援法―』2021年、一般社団法人    放送大学教育振興会15,pp.220-227.
*5──稲葉俊郎『いのちを呼びさますもの    ひとのこころとからだ』2018年、KTC中央出版


第3回    松原正樹さん