アルボムッレ・スマナサーラ


仏教では人が幸せに生きるために慈悲喜捨の心を育てることを推薦しています。この「慈しみの心」はマインドフルネスの文脈においても大切に扱われますが、「他者に対する慈しみ」とともに、近年は自分自身に対して慈しみの気持ちを向ける「セルフ・コンパッション(self-compassion)」も注目されています。
セルフ・コンパッションは、不安や苦しい経験をしたときも、自分自身に対する思いやりの気持ちを持ち、苦痛に満ちた考えや感情をバランスがとれた状態にしておくことであり、現代の研究者によってさまざまな研究も行われています。仏教から生まれ、広がりを見せているこのセルフ・コンパッションですが、お釈迦様は「自分自身に対する慈しみ」をどのようにとらえていたのでしょうか。今回は初期仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老に、初期仏教経典に立ち返っていただきながら、あらためてセルフ・コンパッションについて教えていただきました。


第1回    なぜ、セルフ・コンパッションが必要になるのか


■Be Normal、普通の人間になりなさい

    これからセルフ・コンパッション、「自分を大切にする」というテーマでお話しします。「理性のある人は自分を大切にする」ということは、仏教では話すまでもないくらい当たりまえの前提になっているのです。
    どうすれば自分を大切にできるのか、自分を大切にする正しいやり方は何なのか、経典にはその実例がたくさん出てきます。多すぎて引用が難しいほどです。しかし、そもそもなぜ「自分を大事にする」ということをテーマにしてほしがるのか、私にはわからないのです。「世の中は常識がない人々ばかりなのだろうか?」と訝(いぶか)しく思いますが、常識がないということ自体が「自分を大切にしていない」証拠でしょう。そういうわけで、私の主張はいたって単純です。とりあえず「Be Normal、普通の人間になりなさいよ」ということです。
    だいたい、人は素直ではないのです。みんな自我の鎧をまとって、格好をつけています。勝手に作り上げた妄想概念を自分自身だと勘違いして生活しているのです。ですから、人生はややこしいことになって、人と仲良くすることも容易にできなくなっています。たとえば、誰かが自分のことを勝手に判断して、その色眼鏡で接してきたら、どうしても気持ちよくは付き合えないでしょう。妄想概念のおかげで、ごく普通に「ああ、こんにちは」といった挨拶を交わすことすらできなくなるのです。

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■自己を愛さない行いとは?

    人は素直ではないので、いつでも自分を愛さない態度を取っています。具体例を挙げていきましょう。思い当たることが多いと思います。

1.さまざまな概念に洗脳されて、無理に良い人間になろうと努力する。
    世の中でいろいろ言われていることに洗脳されてしまって、「おれは良い人間になってやろう」と無理をします。これは自分を愛することではありません。

2.世直しに努力してより迷惑な存在にもなる。
    とくに西洋的には「世直し」や「正義の味方」がかっこいいんだという論調です。子ども向けの文学・マンガなどは正義の味方の話ばかり。子どもたちもその影響を受けてしまうのです。

3.信仰する宗教の妄想概念に導かれて、自害的な行為もする。
    宗教も人を素直にさせません。たとえば、より親しくなろうと思って、「一緒にごはんを食べよう」と誘っても、誘われた人は「この人は仏教で、私はイスラム教だ」と考えてしまい、「ごめんなさい、ちょっと難しい」と返答してしまうのです。いつだって「あなたと私は宗教が違う」「戒律の違う人とは付き合えない」などと言っていて、オープンな気持ちで他人に「こんにちは」と言うことすらできない状態をつくってしまうのです。
    過激な原理主義者に限らず、どんな宗教でも自傷的・自己破壊的なことを教えています。仏教も同じことです。たとえば、「大日如来を感得したい」と願う人は、飲まず食わずで何年も森の中や山の上、険しい崖があるところなどで特殊な行をやります。厳しい自然環境のもとで呪文を唱えたり滝に打たれたり座禅を組んだりするのは、明らかな自傷行為でしょう。それで脳が変調をきたしたら、たまになにか変な幻覚が見えます。それは大げさな神秘体験というわけではなく、脳がつくり出したちょっとした幻覚に過ぎません。そんな程度のことを膨らませて、「ある日、私に突然このような奇跡が起きた」などと、壮大なストーリーに仕立てて宗派までつくってしまうのです。さらに、のちの信者たちもストーリーを書き加えるのでキリがありません。

4.良い人間だと社会から褒められ、認めてもらいたくて、社会の不幸、不平などを批判する。
    宗教と関係ない人も、善人を演じようとします。「こんなことがあってはならない!」「こんなことが許されてよいはずがない!」と、あれこれ喚(わめ)き立てます。そのように社会を批判すれば「この人は素晴らしい人だ」と社会から褒められると思っているようです。そうやって、社会が自分をリーダーに仕立てあげてくれると勘違いするのです。

5.自分の間違いを隠して、他人の過ちを公にする。
    これは最近よくあることですが、ソーシャルメディアで書きたい放題、人の悪口を書きまくるのです。ネットでは、書かれている内容が正しいかどうかを証明する必要はありません。ただ、書いてしまえばいいのです。何の根拠もない話でも、読む連中は「その通りだ」と鵜呑みにします。救いようもない愚かすぎる世界です。
    残念なことですが、ソーシャルメディアは、もっぱら人を非難・侮辱することに使われています。書く人も、誰か他人をけなしたらそれで自分が善人になると思っているのです。

■誰もが自己中心的であることを忘れずに

    ここまで挙げた事例は、どれも精神的な病気なのです。共通するポイントは「自己中心的」ということです。誰もが自己中心的な気持ちを持っているのに、その考えに気づかないという落とし穴があるのです。まずは、「我々はみんな自己中心的である」と素直に認めてほしいのです。みんなかっこつけて「私はあなたのことを思って言っているのだ」などと平気で言っていますが、もともと人は自己中心的なのです。その事実を理解して、人をあれこれ非難する前に「この見解は自己中心的なのだ」と気づいてほしいのです。しゃべることにとことん気をつけて生きていれば、90%以上の確率で他人から非難を受ける発言をしないですみます。
「自己中心的」な人々は、「いつでも自分が正しい」というのが前提で生きています。これは人間に限らず、どんな生命も持っている一つのハンディキャップなのです。我々は生きている限り、どうしても「自分が正しい」と思ってしまうのです。限られた主観で世の中を見ているのだから、それは仕方がないことです。しかし、「自分が正しい」という前提を持って生きる限り、その見方はいつでも的外れでピント外れの、歪曲された思考に陥ってしまうのです。
    ですから「私にはちょっと病気があるのだ。〈自分の考えることはなんでも正しい〉と思ってしまう病気だ」ということを、しっかり自覚していないといけません。「自分が正しい」という前提に無自覚なまま生きていると、何をやっても大変なトラブルに繋がります。自分の得た知識は、すべて歪曲されて混乱した知識になります。このような状態で生きることは、「自己を愛する」生き方とはほど遠いのです。

■主観的な判断で自己嫌悪に陥っても意味がない

    私たちはみんな、世の中を主観で見ています。そうすると、自分は実現できていない願望をたやすく叶えている人たちがいることが目につくのです。「私にはできないけれどもあの人は成功している」「あの人は見事にやっている」と勝手に思い、「それに比べて私はいったい何なのだ……」と自己嫌悪に陥るのです。
    しかし、テレビやネットで大成功した人の話を見聞きしても、本当はどうかわからないでしょう。ある人が一生懸命、努力して仕事で成功しているのを見ても、その人の実際の人生はうかがえないのです。他人と自分を比較して見ても、ほとんどの場合、それは的を射ていません。ですから、決して自分と他人を比較してはいけないのです。それなのに、我々はつい自他を比べて自己嫌悪に陥ってしまいます。そういうことをやっているから、人々はなかなか自分を大事にするセルフ・コンパッションを実践できなくなってしまうのです。自分で自分を慈しんで「私は幸せでありますように」と願うことができなくなってしまうのです。

■「私は幸せでありますように」と願える人は素晴らしい

    「私が幸せでありますように」「私の悩み苦しみがなくなりますように」というのは、『慈悲の瞑想』で最初に出てくるフレーズです。もし素直に念じられるならば、その人はとても立派な人間と言えるのです。へそ曲がりな人からは「あのフレーズを言うとなんだか気持ちが悪くなる」などとけっこう言われます。もし、あなたがそう思うならば、「自分は相当な悪人だ」と自覚したほうがよいでしょう。
    それに対して、「私は幸せでありますように」「私の悩み苦しみがなくなりますように」と素直に言える人は並の人間ではないのです。その人は大物です。
    仏教の世界では、ここまで挙げたへそ曲がりで醜い人間の性格について、「間違いだから直しましょう」と提案するのです。


(つづく)


構成:佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会)
            川松佳緒里
2022年7月17日    東京・なかのZERO小ホール    初期仏教月例講演会より(主催:日本テーラワーダ仏教協会)



第2回    経典に学ぶセルフ・コンパッション



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アルボムッレ・スマナサーラ長老(初期仏教長老) 

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2022年9月13日(火)
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死を迎える人を看取るとき、私たちはどのように向き合っていけばよいのでしょうか?    近年は、病院や施設での看取りだけでなく、自宅で家族だけで看取り、在宅医が最期の診断をするかたちもあります。誰もが死を迎えます。そして、様々なかたちの最期があるなかで、安穏に満ちた看取りの場をつくっていくために大切なことはなんでしょうか。初期仏教長老のアルボムッレ・スマナ―ラ長老には、まず「死とは何か」ということをあらためて教えていただきながら、看取る人がどのように逝く人に接していけばよいのか、どのような看取りの環境を作っていけばよいのかについて、お釈迦様の教えをもとに教えていただきます。

【料金】¥3,000(見逃し配信付き)
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