島薗進(東京大学名誉教授)
ジョナサン・ワッツ(INEB理事)

日本における仏教と社会の関係、そして「エンゲージド・ブッディズム」とは何か。そもそもの定義や具体的な出来事、歴史を紐解いていただきながら全体像を知り輪郭を描き、その意義と現代的な課題を、エンゲージド・ブッディズムに詳しいお二人に伺いました。全8回の第2回。


第2回    エンゲージド・ブッディズムのルーツをたどる


●日本の近代から現代にかけての流れ

ワッツ    今回、編集部からの問題設定に「〈エンゲージド・ブッディズム〉とわざわざ言うけれど、そもそも仏教は社会にコミットするものではないのか」とありました。そのことを考えるとき、大乗仏教とテーラワーダ仏教の区別ではなくて、東アジアと東南アジアと南アジアの区別がポイントになるかと思います。
    大切な点は、南アジアと東南アジアの仏教者は、エンゲージド・ブッディズムの歴史のなかで、植民地時代には市民と一緒に闘い、運動したという点です。暴力ではない形で協力しました。そういう普通の人と仏教者の共闘は、戦後では当たり前になりました。この地域の国々では保守系の団体もあるけど、エンゲージド・ブッディズムの人々はさまざまな市民の立場で、民主化運動などの活動をしています。特に戦後1950~60年代は東南アジアと南アジアはエンゲージド・ブッディズムがすごく流行りました。アリヤラトネ、アンベードカル、プッタタート、スラック・シワラック、ティク・ナット・ハンといった人々が活躍しました。では、そのとき日本はどうだったでしょう。同じ戦後間もないこの時期、ANPO(安保)と呼ばれる民衆平和運動が起こりましたが、その中で市民団体や市民グループと協力している仏教団体はほとんどありませんでした。しかしその数少ないグループのうちのひとつが日本山妙法寺です。日本山妙法寺は1950年代に核兵器廃絶を求めて市民平和運動に参加していますね。戦後の南アジアや東南アジアと日本の根本的な違いは、それらの国々のエンゲージド・ブッディズムグループは、植民地主義との闘いの中から生まれたということです。対照的に、日本の仏教は日本の植民地主義を支持することに巻き込まれたため、戦後日本の民主主義のために戦う庶民の側に立つ根拠がほとんどなかったのです。

島薗    藤井日達(にったつ、1885~1985)が興した日本山妙法寺は、戦時中はむしろ国家主義に近かった。戦争に積極的に協力していた仏教は、はたしてエンゲージド・ブッディズムなのか?    という問題がある。


ワッツ    そう、これはとても興味深い指摘です。おっしゃるように藤井師は戦前、どちらかといえばナショナリスティックだったようです。戦後、日本の多くの仏教徒も平和を支持して平和宣言を出したり、平和会議を開いたりするようになりました。しかし日本山妙法寺はそれ以上のことをしてきました。アジアやアメリカ大陸の民衆運動とも連帯し、スリランカやカンボジアでは身の危険を顧みず平和のために活動してきた。
    1950年代から60年代にかけて南アジアや東南アジアでは、仏教の価値観や教えを利用して、共産主義や資本主義とは異なる社会的ビジョンを明確にしました。日本にも同じようにオルタナティブな社会的ビジョンを描いたました人々がいましたが、彼らは仏教徒ではなかった。また戦後社会にとって仏教の教えに価値を見出す人もいなかった。戦後は高度な世俗主義の時代でした。

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日本山妙法寺ホームページ(https://nipponzanmyohoji.geo.jp/)
島薗    それは違う見方もできますよ。大正時代には仏教社会福祉が非常に盛んになりました。代表的なのは渡辺海旭(かいきょく、1872~1933)です。浄土宗僧侶の社会実業家です。それから大正大学や今の淑徳大学に繋がる長谷川良信(1890~1966)の流れがある。

ワッツ    渡辺海旭先生の弟子は大正大学出身の浄土宗僧侶長谷川良信で、彼が淑徳大学を創立しましたね。おっしゃる通りだと思います。しかし日本社会の中でのそのような宗教的立場は、私が「社会福祉活動」と呼んできたものに限られてきました。南アジアや東南アジアのように、物質主義や大量消費主義を推し進める経済政策や政治政策に疑問を投げかける「社会変革活動」に、宗教的な立場が使われることはなかったのです。

島薗    しかし、社会福祉の方面での活動の意義はそれなりに評価したいところです。また、日本福祉大学は宗教法人法音寺という日蓮宗系で、明治末期に仏教感化救済会という法華経と日蓮主義をもって世を救済しようという、社会貢献を掲げているところがルーツです。法音寺は保育所や児童養護施設、障害者施設、老人ホームなどを経営する社会福祉法人も運営しています。
    創価学会の元になった牧口常三郎(1871~1944)の創価教育学会は1930年創立ですが、やはりこれも草の根から社会を変えていこうという志向を持っています。
    渡辺海旭の運動はドイツから大いに学んでいるのですが、日本でもキリスト教系のセツルメント(隣保事業)とか福祉活動が起こってきたのが明治時代の終わりごろ。対して仏教界は何をやっているんだということで、浄土宗を動かして、一大福祉運動である共済運動をした。それは社会主義への防波堤的な意味、つまり社会対立が深まって人々が社会主義へ行ってしまうのを防ぐ意味もあるので、政府は宗教系の運動を比較的好意を持って受け止めた、そういう流れなんです。
    欧米のキリスト教系の運動もそういうところがあったわけですが、比べると植民地状況というのが違うんですね。圧倒的に抑圧されている人々の声を拾い上げるような条件が仏教界にもある。そういう中で民主主義国家の形成に向かっている。東南アジアのエンゲージド・ブッディズムというのはそういう中で出てきた。しかし日本の場合は、大正時代の運動があり、昭和になると国策協力にぐっと傾き、戦後は福祉国家路線に組み込まれていくわけです。なので昭和のかなりの時期、宗教が自律的に社会活動をする余地が非常に限定されて、国家への協力みたいになってしまった。ここからのリカバリーが戦後です。そこで創価学会(1930年創立)が出てくるのは一定の必然性があるわけなんです。つまり、戦前を生き延びて、その潜在的なエネルギーが戦後に引き継がれて出てきたと。それほど遅れないで立正佼成会(1938年創立)や国際NGOのWCRP(公益財団法人世界宗教者平和会議日本委員会、1970年設立)なんかが出てくる。

ワッツ    大正期の話をするなら、何人か名前を挙げたい。まず曹洞宗の僧侶の内山愚童(1874~1911)という悪名高き人物がいます。彼が説いたのは「無政府共産革命」。明治天皇暗殺を企てた大逆事件で逮捕され処刑されました。浄土真宗大谷派の高木顕明(1864~1914)は世界平和を推進し、日本の帝国主義を批判した。また、日蓮宗の僧侶、妹尾義郎(ぎろう1889~1961)は、民衆のための「大衆的仏教」を説いたけど、彼もまた逮捕されて戦争中は獄中で過ごした。
    そして戦後、1950~60年代の日本は市民の平和運動とか民主主義の運動がすごく流行りましたね。学生運動も盛んだった。それが60年代末からだんだんなくなっていきましたけど……

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前列左から頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富蘇峰、後列左から花田半助、渡辺海旭、柴田徳次郎
( - Mitsuru Toyama official website http://www.toyamamitsuru.jp/syashin/index.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2350935 による)

島薗    その前、54年にビキニの核実験での第五福竜丸の事件が大きなトピックでしたね。杉並区の女性たちが始めたと言われている、国民的な核実験反対運動が起こりました。もちろん広島・長崎の原爆に対する批判がもとになっています。なので、左も右もという感じの運動が、特に50年代、ある程度盛り上がっていったわけです。

ワッツ    立正佼成会と創価学会はその流れに加わったのですか?

島薗    そう思います。少なくともそういう動きと歩調を合わせて、「平和」という目標が共鳴されてくるわけです。その前に、たとえば宮沢賢治(1896~1933)は国柱会に参加していた。でも、彼はあまり国家主義の匂いがしない。つまり、宮沢賢治には日本の仏教の中にある社会参加仏教的なものがいろいろな表現をとっていると言えるんです。まあ、日蓮系の運動にも世界最終戦争論の石原莞爾(1889~1949)など、たくさんあったわけですが、日連系に限らず、他の人たちも福祉活動とか平和運動とか、いろいろなことに乗り出そうとしていました。そういうのは、今から振り返れば近代的な社会参加仏教として捉えてもいいのではないかと思うんです。

ワッツ    うん。

島薗    ただ、ワッツさんが言っているポイントは、やっぱり植民地状況だと、政治体制に由来する抑圧という問題、その点への社会批判が明確なので、そこに向かって仏教界も、かなり方向性を定めていける。ベトナム戦争は植民地政策の最たるものですよね。そのリーダーとして、戦争を背景に亡命していたティク・ナット・ハンが唱えた社会参加仏教が大いに受けた。日本はそういう植民地主義の、むしろ抑圧者のほうですからね。そこで、エンゲージド・ブッディズムというふうな受け止め方にはなかなかなじみませんでした。

ワッツ    そう。日本は加害者側であるという点はとても問題です。

●エンゲージド・ブッディズムを歴史的に捉える

    ──エンゲージド・ブッディズムと言われているものは基本的に近代以降のものと捉えるのでしょうか。

島薗    そこが議論のあるところで。たとえば利他行で社会福祉事業に従事した奈良時代の行基とか……

──なるほど。やはり奈良時代の光明皇后の悲田院と施薬院設立なども社会に対するアプローチだと思いますが、それをエンゲージド・ブッディズムとして語っていいのかどうか。近代以降の仏教が社会にコミットしていくあり方を「エンゲージド・ブッディズム」としてくくるのか。つまり、西洋の植民地主義政策に対するカウンターとして市民の側に立ってお坊さんたちが活動していく、その運動の流れとかエネルギーが「エンゲージド・ブッディズム」というときの重要な要素であって、奈良時代まで遡ってそれがエンゲージド・ブッディズムだと言及していくのはちょっと違うという理解の仕方でいいのでしょうか。

島薗    そこは多分私とワッツさんの意見は分かれると思うので、ワッツ説をまず聞かせていただければ。

ワッツ    うん。まず一つはアクシャライゼーション。アクシャライゼーションとは、シフトや転換を意味する言葉です。ここでいうアクシャライゼーションは、宗教を自分の部族の神々として理解することから、すべての人々、さらにはすべての衆生(有情)に対する愛と慈悲の価値観と倫理観の共通の源泉として、宗教を理解することへの大きな転換を意味しています。ブッダでさえも、ダルマの車輪の回転について語ったとき、これらに言及しました。
    この理解では、バラモン教やユダヤ教が現れた時代、古代世界はどこでも宗教は自分の民族のため、自分の親族のためのものだった。それが転換した。お釈迦さまは衆生のために、キリスト教カトリックのイエズス会も宗教はみんなのために、となった。広い道徳的な社会倫理の立場で、「我々はみな人類一緒に慈悲とか非暴力でいましょう」というテーマですね。
    平安時代末期には、仏教は権力政治に深く浸透していた。仏教は庶民の身近な存在ではなく、庶民のことは考えていなかった。その中で法然上人、親鸞聖人、道元禅師、日蓮上人はすごく大切な役割を果たしました。法然の専修念仏は、宗教界を動揺させただけでなく、室町時代から戦国時代の真宗一向一揆運動においては政界をも動揺させた、精神的民主主義の過激な宣言だった。これは古くからある「解放の神学」Liberation Theologyの一形態といえます。「解放の神学」は戦後、カトリック教会の専制政治を拒否した南米やフィリピンのカトリック信者の間で知られるようになった運動です。日本では、浄土宗の専修念仏のように庶民と連帯する教えが息づいている。東京でホームレス支援をするひとさじの会や、同じく東京の大河内秀人師による脱原発や地域開発(かいほつ)などの仏教活動に生かされている。
    日蓮は政府を直接批判し、この世に浄土を作ろうとした。日蓮は、日本山妙法寺が政府の原子力政策や憲法9条改悪の試みを批判する際に採用している「国家を諌(いさ)める」という伝統を作り上げました。このような庶民福祉のための非暴力社会倫理を理由とする直接的な政府批判は、戦後においては異例であり、それゆえに非常に意義深い活動です。
    アクシャライゼーションの精神に基づき、日本山妙法寺と大河内師はともに南アジアや東南アジアの仏教徒と緊密に連携している。釈尊が説いたように、彼らは衆生のために同族性(「氏」)や国籍の壁を越え、乗り越えている。

島薗    それはアクシャライゼーション、つまり「軸の時代」体制化というより普遍主義といったほうがいいですね。「どんな人でも」ということですね。

ワッツ    そうですね。アクシャライゼーションの意味は、ブッダと中国の孔子が生きた紀元前5世紀ごろからキリストの時代までの、ある特定の瞬間を指す。また、日本における鎌倉仏教の時代を指すとも言えます。島薗先生のご意見を聞かせてください。島薗先生が鎌倉仏教にある懸念を抱いていることは知っています。

島薗   宗教がそういう特定の部族集団とか民族とか、集団の利益というか幸福と結びついている段階があったと。今はあまり好まれない言い方ですが、そういうのをエスニックレリジョンとか民族宗教と呼んでいた。そういう用語でヒンドゥー教やユダヤ教や神道などは同類のものとして見ようとしましたが、実際にはそれぞれだいぶ違うので、同類と見てよいかの判断は難しいものがあります。
    それに対して、キリスト教、イスラム教、仏教は、「全ての人が救いの対象である」という「救済」の理念をもっていますね。私はこれらを「救済宗教」と言っていて、ヤスパースのいう「軸の時代(アクシャル・エイジ)」に登場してくる。その特徴の一つは普遍主義ですね。そしてワッツさんが今言ってるのは、エンゲージド・ブッディズムというのは、その普遍主義と深い関わりがあるという観点だと思います。
    私の見方は少し違います。というのは、ではユダヤ教やヒンドゥー、あるいは鎌倉仏教以前の日本の仏教、今は別とおっしゃる神道にしても、そういうところに社会参加的なものがないかというと、そうでもない。なので、アクシャライゼーションと結びつけるというのは大事な視点なんだけど、少し留保したほうがいいのではないかなと思います。
   
●お釈迦様に戻って問い直す

島薗    私の考えを言うと、エンゲージド・ブッディズムを理解するにあたっては、お釈迦様に戻ることになる。本来、お釈迦様はどういう意味でソーシャリーで、エンゲージドなのかについての理解がまず非常に重要だと思うんです。
    キリストの場合はどうだったか。ムハンマドの場合はどうだったか。あるいはそれ以前の、たとえば預言者とか宗教リーダーはどうだったのか。そういうところとも関係があるのですが、お釈迦様の社会参加はどういう点にあるわけですか。

ワッツ    たくさんありますね。彼が王族だったという立場的なところもそうですし、ヒンドゥー教と仏教の王様の理解がすごく違うところもポイントですね。ヒンドゥー教はデーヴァ・ラージャで、神様・王様。でも仏教はダンマ・ラージャで、神様ではなく法(道徳)の王様。タイの国は仏教の国だから王様はダンマ・ラージャですが、ヒンドゥー教の影響でみんな、「ああ、王様は神様、ありがとう、ありがとう」となる。それはスラークさんもすごく批判しています。お釈迦様の時代は16カ国あって、小さい国は王制ではなく民主的にやっていました。釈迦国は民主的な議会制度で、現代のような議員制度、民主主義みたいな方法だった。お釈迦様のサンガもそういう制度でしたね。
    昔のヒンドゥー教は動物を殺して生贄にするとか、いろいろ儀式的なこともやっていた。お釈迦様はそれに対して、「それはよくないですよ。それは暴力だし、すごく経済的にもったいない。生贄の本当の意味は何ですか」と諭しました。もともとはそういう感じで、あちこちで紛争解決の活動もやっていたのですね。社会制度を成り立たせるために、社会倫理をすごく大切なものとして位置づけていました。
    仏教が絶えず倫理的な立場を貫いていたことはもちろんですが、たとえばヒンドゥー教の教典の言葉についても、お釈迦様はいつも倫理的な立場から新しい理解を提示しました。有名なエピソードがあります。あるときバラモンがお釈迦様のところに来て、バラモンは両親の血筋で決まるのだというのに対して、お釈迦様は「違いますよ。人間は誰もが同じで平等です。バラモンの本来の意味は“いい人、真面目な人、親切な人”ということであって、人間に差別はまったくありません」と説かれました。
    そういう仏教の政治・経済・文化の革命は、はじめからありました。

島薗    そう。一方で、ブッダの教えは、四諦や八正道などで説かれているような苦を超えて、苦しみから脱していく。これは捉えようによっては社会からの離脱ですね。で、ブッダ自身は社会から離れて、旅の生活、あるいは精舎で、社会から離脱した人たちを集める活動をしていたのだとすれば、それはどういう意味で社会参加(ソーシャリーエンゲージド)なんですか、という質問が自然に出てきますよね。

ワッツ    その質問の中に、なぜ仏教はインドで滅びたのか?    の答えが出てきます。仏教はだんだん、お坊さん中心の宗教になっていった。そして、修行者か学問かの二つの流れに分かれます。ナーランダ大学も大きい寺院になってお金も集まって、普通の農民や庶民は毎日の生活に仏教が関わらなくなっていく。そして西洋からイスラムの人が入ると、それが広まっていって一般人の生活上から仏教がすぐ忘れ去られてしまった。普通の人の毎日の生活に仏教がなかった。普通の人の毎日に仏教はエンゲージしていなかった。だから、仏教の理解もなくて滅びてしまった。


2024年3月22日、東京・浄土宗心光院にて対談
取材:編集部/森竹ひろこ(コマメ)
構成:川松佳緒里
撮影:横関一浩


第1回    そもそもエンゲージド・ブッディズムとは?
第3回    仏教の社会参加の意味を考える